『社会評論』107号 発行=小川町企画 販売=土曜美術社出版販売 1997年5月

連続講座「花田清輝―その芸術と思想」第二回

花田清輝とメディア

粉川哲夫

マスメディアでの評判

この十数年間に、花田清輝について論じたことが何度かあるんですが、この機会に今までの花田清輝についての把握のしかたについてあらためて考えてみたいと思います。ここでお話しするまでにいろいろと思いついたことを話したいと思いますので、思考のプロセスにおつきあいいただければと思います。まず、メディアというと今では、電子メディアのことを想定することが多いと思いますが、花田清輝の場合、まず第一に花田清輝というメディアがあるわけです。つまり、本ですね。このメディアの位置づけが、花田を論じる場合重要だと思います。一九五〇年代・六〇年代の花田清輝というのは、まさに批評活動をやっていた花田清輝であって、読者はリアルタイムに新聞などで花田を読めたわけです。著作も大体買えました。ところが、七〇年代になると出されていたものが絶版になるなどの理由で、花田の著作は店頭ではあまり見られなくなります。多くの読者、特に学生は一九五一年に角川書店から文庫で出版された『復興期の精神』が比較的入手しやすかったので、それを手がかりに読んだ人が多いと思います。八○年代になると花田清輝という批評家の存在が、一般的には忘れられてきます。六〇年代に花田を知らない人はほとんどいなかったと思いますが、八〇年代の花田清輝に対するイメージは、批評ふうの歴史小説を書いている、非常にマイナーな作家というものが強かったと思います。八○年代末から九〇年代にかけては、花田清輝の本(メディア)に関して少し状況が良くなってきました。というのは、講談社が『復興期の精神』以外にも、文庫版でかなりのものを出し始めたからです。ただ、全般的には、いま花田清輝がどういうふうに知られているかというと、悲しいことにほとんど知らない人が多いんじゃないかと思います。

それともう一つは花田清輝を最初に読んだのが、五〇年・六〇年代か、七〇年代か、あるいは八○年代かで、花田に対するイメージはかなり違ってくることと思います。五〇・六〇年代の花田清輝は、非常にアクチュアルな批評家という社会的イメージがあったと思います。しかし、七〇年代になるとこの間に吉本隆明との論争があって、花田は吉本にやっつけられてしまった、というイメージになります。それから花田清輝は日本共産党を離れているわけですが、依然として共産党系の知識人じゃないかというイメージでとらえていた人たちもかなりいました。ここに一九六一年の『日本読書新聞』の記事がありますが、ここには「新日本文学会、党員メンバーついに踏み切る、共産党問題でアピール」という記事がありまして、トップに花田清輝の写真、つぎに針生一郎さんの写真、小林祥一郎さんの写真が載っていて、下のほうに「佐藤昇、武井昭夫氏ら除名さる」という記事が載っています。そういう極めてアクチュアルな批評家のトップというイメージが花田清輝にはありました。しかしこれは、もう少し時代を下ってくると、全然違ったイメージになります。ここにもうひとつ一九七一年五月十五日号の『図書新聞』があります。これに「転形期の論理を探る文学」というのがあって「戦後派作家対談」というのを古林尚が連続してやっていて、そこに花田清輝が登場しています。私が始めて花田清輝に接したのは五〇年代末から六〇年代にかけてですが、だんだん時代が下ってくるにつれ、花田についての記事が少なくなってきました。もちろん本は出ていますが、こういう書評紙あるいは一般紙に登場する機会がなくなってきます。この『図書新聞』で古林氏は、ある種の後退といいますか、論争的な姿勢が一般には見えにくくなってきている、そういう花田清輝に突っ込んで聞こうとしている対談なんです。これを私はリアルタイムで読んだわけですが、久方ぶりに花田の最近の活動がわかる、といった期待とともに、興奮して読んだ記憶があります。

いずれにしても、七〇年代になると花田に対するマスメディアのフォローがずいぶん変わってきてしまった。この花田に関する関心の移動は、花田清輝自身の批評活動のゆれということだけではなくて、やはり日本のメディア状況が大きく変わったということと関係があります。そういう面についても今日は展開してみようと思っています。

私が始めて花田清輝に触れたのは、ここにある山口書店から出された『乱世をいかに生きるか』という本です。これを読んだとき、全然花田という人を知りませんでした。これが私にとっての花田との出会いだったわけです。この本との出会いは非常に幸運だったんじゃないかと思ってます。これに初めて触れて、ここから花田の他の著作を本屋で探して読むということを始めたわけです。『乱世をいかに生きるか』から花田にはいっていった読者と『復興期の精神』で花田にはいった読者とでは、その後の方向が変わってきてしまうのではないかと私は思うんです。当時、六〇年代の初めでも、花田については、レトリックの天才とか、あるいは韜晦のミスティフィケーションの達人とか、まず花田というのは難解である、という印象が一般にはかなり強くありました。私はこの『乱世をいかに生きるか』を読んで、そのあと『アヴァンギャルド芸術』とか『さちゅりこん』といった方向にいってしまったので、『復興期の精神』はほとんど読んでいなくて、だいぶ後になって読みました。だから、花田のレトリックというのを、「韜晦」という意味ではなく、たとえば高見順の批判をあざやかに切りかえすといった具体的な論争術という意味で理解しました。しかし、『復興期の精神』を最初に読むと、そういうふうにはなれないと思うのです。

『復興期の精神』を読むと分かりますが、それぞれが非常に圧縮度の強い文体で書かれていて、各文章の副題にはマキアベリとかゲーテといった歴史上で有名な人物の名前が使われています。五〇年・六〇年代のリアルタイムで新聞・雑誌に書いていた花田、それから新日本文学会に立てこもって活動していた花田、共産党を追い出された花田、そういう花田の活動を知っていた人にとっては『復興期の精神』の行間から非常にアクチュアルなものを引き出すことができたと思うんですが、六〇年代後半以降になると、そういうことを知らない読者もだんだん増えてきます。知らないで花田のイメージを別なものとしてとらえてしまう読者も増えてくるんです。

『復興期の精神』のあとがきに、これは有名なあとがきですが〈戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った〉という書き出しで始まり、〈そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一聯のエッセイを書いた。〉といっているわけです。このレトリックというのは、それをあとがきなどで書くと、それがひとつのレッテルになってしまうというのがあるわけですが、花田イコールレトリックの人、文体を駆使してむずかしいことをいう評論家というイメージがだんだん出来てきてしまったんです。

前回の講座で、湯地朝雄さんが花田の初期の文章の中にある、同時代性、あるいはアクチュアリティー、ということを話されていますので、ここでは『復興期の精神』については立ち入りませんが、例えばゲーテのところを見ても、ようやく三十年後に、京都大学の高橋義人さんなどが再解釈した自然科学者としてのゲーテの側面とか、そういうものにいち早く花田は注目しているんですね。しかも、これを書いたのは一九四〇年代なんです。『変形譚』、副題はゲーテとなっています。一九四〇年代・五〇年代というのはゲーテ・ブームなんですね。一九四九年がゲーテ生誕二百年祭ということもあって、戦後のある種開放された空気の中で、ゲーテが改めてとらえなおされました。これは余談ですが、手塚治虫さんが鉄腕アトムの着想を得るのは、ゲーテの『ファウスト』の中に出てくるホムンクルスという人造人間あたりからではないかと類推もできるし、実際、手塚治虫が『ファウスト』というマンガを『鉄腕アトム』以前に書いているわけですね(だから、絶筆になった作品のタイトルは『ネオ・ファウスト』になっているのです)。明治以来、日本では、ゲーテは非常に崇高な西欧的知性の鏡のようなとらえられ方をされてきました。しかしながら、花田は非常にロマンティックなイメージとしてのゲーテというものには一切触れていません。『変形譚』というところから、ゲーテの植物の変態論、自然科学の問題は、今、非常に重要なものだといわれているわけですけれども、当時、翻訳はあっても、ここに注目した人はほとんどいなかった。そういう時代に、花田はそれを取りあげました。しかもそれを、カフカの『変身』などにつなげるという大胆なアプローチをやっているわけです。そういうわけでこれは大変に難解です。ですから、このおもしろさというものが持続した関係で分かる読者というのは非常に少なかったんじゃないかと思います。ですから、不幸にして『復興期の精神』から入ってしまった読者はまず花田というのは難解である、何か非常に凝縮した文体で、その中に西欧、東洋の思想を詰め込んでいる、ということは分かるけれども、何かちょっと大変だ、厄介である、というイメージでとらえてしまったんじゃないかと思います。

ところが『乱世をいかに生きるか』という方は、全くそういう感じがありません。一見、別人であるかのような文章なんです。私は最初『乱世をいかに生きるか』を、これは何か人生論の本なのかな、という思いでページを開いたわけです。するとトップに『人生論の流行の意味』というのが書いてあって、要するに人生論なんていうのがいかに下らないか、ということをまずいっているんです。そして自分は人生論なんてものに興味がないんだ、とくる。ちょっと読んでみますと、〈人生論の流行は、若い世代が人生に絶望しているにもかかわらず、まだいくらか人生にミレンをもっている証拠であって、一枚も着物のつくれないやつがスタイルブックを買いこんで眼をひからせてみたり、パンと水で生活しているやつが「食いしん坊」なんて本にコーフンしてみたり、〉―これは小島政二郎の『食いしん坊』が当時ベストセラーになったことにひっかけているわけですね。―〈さんざん部屋代をとどこおらせているやつが、ブロック建築の写真かなんかを参考にして、自分の家の設計に熱中してみたりしているようなものだ。もともと人生というやつはつまらないものであるが、人生論というやつは、それに輪をかけてつまらない。人生論以上につまらないものは−さあ、ちょっとおもいあたりませんが、たぶん、その人生論の著者でしょうね。〉こういうふうに書いているんですね。わかりやすい文章なんだけれど、文章の間に何か、作者のひらめきとか、非常にダイナミックな思考のスタイルというものが横溢しているように感じられて非常な驚きでした。こういう形で文章を書く批評家というのはこの時点ではいなかったんじゃないでしょうか、私は少なくともこういう人に出会ったことがありませんでした。

そういう意味でこの『乱世をいかに生きるか』を非常に面白く読みました。「あとがき」を読みますと、〈これは、戦後ジャーナリズムの注文に応じてかいた、わたしの即席の文章をあつめたものである。ちぎっては投げ、ちぎっては投げ−などというと、まるでウソつき弥次郎みたいだが、かえって、ここに、わたしの生地が、あざやかに出ているにちがいない。〉と書いてありますね。今の物書きだったら、自己顕示欲の強い人はいくらでもいるわけで、この程度のことは書くかもしれませんが、この時点でこういうようないい方をする、それからすぐ〈わたしの独断によれば〉、といういい方で文章を展開する、こういう人はあまりいなかったと思います。

それから、正確なことはあまり知らないんですが「アプレ」という言葉は花田が言いだしたという説があるんです。「アプレゲール」の「アプレ」ですね。ここに『第三のアプレ族』という文章が入っていて、ここにこんないい方があるんです。〈わたしは、言葉の厳密な意味において、アプレ族とは、戦後にうまれた民主主義的人間以外のなにものでもないと考える。したがって、〉−なにものでもない、と断定するのは花田の文体なんですね。−〈第三のアプレ族とは、戦後にあらわれた民主主義的人間の第三番目のタイプで、主としてティーン・エイジャーに属する今日の若い世代を指すものと解する。〉という考え方をしていて、一見まともな文章でくるわけです。ところが、最後のほうになると、〈おもうに、日本のアプレ族の不幸は、戦後十年にもたりないあいだに、アメリカの手によって普及された民主主義を−開拓時代から現代にいたるまでいろいろと変化してきた民主主義を、一気に生きなければならなかった点にあるのであろう。そういう意味では、第三のアプレ族は、資本主義第三期における民主主義的人間のすがたを、あますところなくしめしているともいえるのだ。かれらは、強盗や殺人よりも詐欺を好む。詐欺が失敗したばあいには自殺をする。心中するやつもいる。〉

これは、当時の状況、新聞ざたになっているような事件をリアルタイムに取り入れたスタイルですね。花田のこの文章も新聞に発表されたわけですから、これを若い人が読むと、今起きている社会風俗の中の一見、偶然起きたような事件と戦後の動向と社会的な動きというものが、直ちに連結していくという経験を得られたのではないかと思います。花田はこうした連結作業がアクチュアルな批評の仕事の一つだと考えていました。こういう文章がこの『乱世をいかに生きるか』という本の中には、たくさん出てきます。

花田清輝はあの時点でもう、そう若くはなかった、ということを後で知ったんですが、この本を初めて読んだときには、まるで若いアクの強い批評家が、いいたい放題やっているという、感じがしました。

文体のダイナミズム

花田清輝をごく最近知った人もいらっしゃると思いますので、少し基礎的なことをお話したいと思います。花田の場合、花田理論、花田テーゼと称されるものがいくつかあります。

「前近代を否定的媒介にして近代を超える」とか、「視聴覚文化論」とかですが、そういうメディアで定形化された図式から入っていったり、先ほどの『復興期の精神』の非常に凝縮度の高い文章から入っていくというのも、ひとつの花田への接近のしかただと思いますが、花田のある種の抜群の言語感覚といいますか、とりわけそのなかでも、論争的な文章からはいったほうが花田の面白さ、花田の思考方法をわれわれが活用していくという意味では、非常に役立つのではないかという気がします。

『乱世をいかに生きるか』という本の中にも、自ら文体を論じている文章があります。これは『文体の秘密』という比較的長い文章ですが、この中でこういう言い方をしています。〈文体は人体のようなものだ。というと、どこかできいたことのあるセリフのような気がするかもしれないが、すくなくともビュフォンの「文は人なり」なんかにくらべると、このほうが、はるかに具体的でもあり、唯物論的でもあり、さらにまた、エロチックでもあるとわたしはおもうのだが、どんなものだろう。〉といって、〈いや、エロチックというのは、少々、説明を要するかもしれない。〉というように、花田の文章というのは、何かを言ったあと、ところが「しかし」ときて、つぎに「とはいえ」というように前後左右に動くんですね。何か最初にいったことをがーっと一直線に結論づけていく文章というのは非常に分かり易い分けですが、花田の場合は、いったん言っておいて「だがしかし」と一回戻ったり、「とはいえ」とそれが横に動いたり、ある種のダイナミックさがあります。これがある場合には、花田の難解さにもなっているわけです。だから花田の文章が嫌いな人はその段階で読まなくなってしまう、というところが一つありますが、逆にこのリズムをつかむと花田がかぎりなく面白くなるわけです。

声を出して読んでみると、花田の文章がいかにリズミカルであるかが分かると思います。かつて花田の本を何冊も作ったことのある未来社の元編集長の松本昌次さんが「花田さんの文章はジャズです。ジャズのビートが感じられる」とおっしゃっていましたが、そういうところがあるんじゃないかと思います。

そんなわけで、まだ六〇年代の段階では熱烈な花田ファンがいました。面白いのは花田の政治的な意識に対して共感をもてるとは思えないような作家や、デザイナーの中にもずいぶん花田ファンがいました。五木寛之や小林信彦も花田の熱烈なファンの一人だったそうです。その場合、花田の魅力というのは「花田のいっていることは別として、文体がいいからね」という人が結構多かったと思うんです。もちろん花田の場合、文体のなかのダイナミズムというのがひとつの重要な要素になっていると思いますが、それが状況とか思想と別ものであるというわけでは無論ありません。

今日、花田の書き遺したものを通じて、もう一度、読者が再活用、展開していくという方向でひとつの手がかりが得られるとすれぱ、花田が提起したテーゼであるよりも、花田の文体のなかに潜むダイナミズムではないかと思います。例えばいまの『文体について』という文章のなかにこういう部分があります。ここでは、過去のいろいろな文体論について取りあげながら批判しているんですが、ここで鴎外の文体について取りあげています。いまでもそうでしょうけれど、鴎外というのは非常に名文家というイメージで、鴎外の文章は硬質な文章であるということで、評価されている面があると思うんですが、ここではそれを一蹴しています。例えば、

〈鴎外の文体をみるには、『ギョオテ伝』が、いちばん、いいという噂があり、わたしもまた、一度、そういう観点から、その『ギョオテ伝』なるものをながめてみたことがあるが、「た、た、た、である」の連続で、まるでフタをあければきまっておなじ歌をうたいだす、単調なオルゴールの音楽をきくようなおもいを味った。/ギョオテは、朝おきた。顔をあらった。メシをくった。それから馬車にのって外出したのである、とくる。まったく武田泰淳の作中人物じゃァないが、相手の言葉が途切れるたびごとに、一々、それがどうした、といいたくなるから不思議である。おかげで、わたしは、すっかり、ゲーテが−いや、ギョオテが嫌いになってしまった〉と書いているんですね。こういう歯に衣着せぬ言い方、あらゆる権威的な存在を、単なる悪口ではなく、その根底から異化してしまう才能というか、これは花田が一貫して持ってきたものではないかと考えます。

それに対してここで彼がとくに持ち上げているのが石川淳です。石川淳についてかれはこういう言い方をしています。〈むろん、わたしが、ギョッとしたのは、『その時梯子を上って来る人の足音が廊下に止まって』以下の後半の部分だ。〉これは石川淳の『普賢』ですけれども、〈『ごめん下さい』と応えも待たず部屋の襖を開けたのは、この宿の女主人葛原安子で、外出と見える盛装にふくらんだ中年女の肢体をいっぱいにふるわせながら、『じゃ、御一緒に願えません。』『何です。』『あら、きょうと云うお約束だったじゃありませんか。』『え。』〉という会話をここで紹介しているんですね。この会話のある種のエロティシズム、ダイナミズムを花田はここで非常に評価しているんですね。〈前半の部分なら、わたしにも容易にかくことができる。わたしの『復興期の精神』のなかにはいっているエッセイなどは、ほとんどその全部が、そういった調子のものだ。したがって、ダラシのない話だがはじめて右の一節に接したとき、はじめて、ストリップ・ショウをみたやつのように、すっかり、わたしは、かたずをのんでしまった。わたしは、アダムの文体とイヴの文体について考えた。そうして、作家は、hermaphroditeでなければならないというが、作家の文体もまたそうだ、とおもった。〉このhermaphroditeというのは、雌雄同体というような意味で、要するに女性的なもの、男性的なものを同時に持っているような作家、あるいはそういう意識というのもを花田は評価しているし、石川淳のなかにそういう才能をみていたようですね。

私はまだ読んでいませんが、最近『フェミニスト花田清輝』という非常にインスパイアーさせるタイトルの本をだした人がいますが、花田は自分でフェミニストだといっていました。この時代の思想家は、左翼であれ、右翼ならなおさら男性至上主義が非常に強いわけです。しかし、花田の文章のなかの言葉の端々に女性的なるもの、あるいは、男性に対する女性の優位というか、そういう言及が多々あるんですね。これは非常に面白いと思います。

「アプレ」という言葉もそうだと思うんですが、花田清輝は言葉をその由来をおさえたうえで新しく使うという才がありました。ここに、武井昭夫さんと花田清輝氏が毎月映画評の対談をし、それをまとめたものがあります。『運動族の意見−映画問答』というタイトルの本です。この中に「運動族」という言葉がどこからきたかということを、説明している「運動族とパーティー族」という章があるんです。いろいろな活動家、それから当時の政治状況をとらえながら、活動家はいろいろいるけれども、かれらはしょせんパーティー族で、それに対して「僕はそれに対するものとして運動族みたいなものを考える。」と花田はいっています。それを受けて武井さんが話をしているんですが、この「パーティー族」というのはすごいいい方ですね。このパーティーというのは宴会のパーティーと、もう一つ党のことですね。ですから花田はパーティーという言葉を使ったときにそこに党という要素と、しょっちゅうそこに群れているけれども何もやっていないパーティー、という意味合いの両方をそこに投入しています。そしてそれを超えるひとつの方向として、運動族という言い方をかれは作るわけです。こういう言語感覚というものには非常に鋭いものがあります。ですから当時学生で、のちに電通などの広告代理店に入ったり、デザイナーになったりした人たちのなかには、花田から言語的センスを学んだ人が結構いるようですね。

論争のスタンス

とりわけ言語を通じて花田にアプローチする場合に、そういう抜群の言語感覚だけではなくて、もう一つ重要な文体といったものが花田にはあるわけです。それがポレミックな文体、論争的な文体の中に表れた花田清輝です。

これは批判文体といっても良いと思うんですが、それは『噂の真相』的な下品な中傷(そうでないものもありますが)というものではなく、極めて根底的批判をくだけた調子でやっていく花田独特の文体です。

花田は一九五〇年代の中頃から末にかけて常に論争をやっているわけですが、花田は批評という仕事を異化というか、常に対立物をつきつけていくというふうにとらえていたんだと思うんです。と同時に、花田がある思想家なり作家を批判する場合、あくまでも書かれているものを批判しているのであって、その人格を批判しているつもりは全然なかったと思います。ところが、これは日本の思想・文壇を含めて、どうしてもそういう傾向になってしまうわけですけれども、ある文章を批判すれば、その人格を否定したということになってしまう、という傾向が日本の場合、非常に強いわけですね。ですから、花田は常に、江戸の仇を長崎で、みたいなことをやられたと思います。これには、あまり立ち入る事はできませんが、日本の場合、天皇制というものがあって、例えば国家批判をやると、究極的に天皇批判になっていき、そして、天皇という人格(憲法に規定されている天皇には人格がないと思いますが)批判になっていくという構造があるわけです。事実上、天皇というのは機関でしかなくなっており、国家統合の象徴と憲法で規定されているのだから、国家批判は当然天皇批判を伴っていくわけですが、具体的に生きた人物としてその象徴がいるということのために、結局、その生きた天皇批判になっていきます。あるいは天皇を否定していく、抹殺していかなければならない、かのような発想にみえていくというところとどこか繋がっているところがあると思うんです。そうした土壌のために花田はずいぶん恨みをかった部分があり、それがピークに達するのが、いわゆる花田・吉本論争です。

花田の論争文体の例をあげましょう。『さちゅりこん』という本のなかにある『反俗物的俗物』で、

〈『群像』(三月号)の高見順・伊藤整の対談のなかで、高見がふたたびわたしにたいして挑戦しており、しかもその挑戦は、戦後の批評家全体に関連をもっているようだから、そいつをとりあげて料理してくれという注文だが、いったい、鶏をさくのに牛刀をふるってもいいものだろうか。われわれのあいだには一種の公約があると称し、うじゃじゃけた雰囲気をみなぎらせながら、恥ずかしげもなくナレアイ精神を発揮している二人の紳士の「平和的共存」にケチをつけることは、いささか小児病的な行為ではなかろうか。」「『芸術のいやったらしさ』のなかで、わたしが、かれのわたしにはってくれたゴロツキというレッテルを自慢したため、無念やるかたなく、このモダモダやいかにせん、というわけで、今度は、かれもまた、わたしにまさるともおとらぬほどのゴロツキであり、ゴロツキらしいゴロツキであるわたしなんかチンピラ・ゴロツキにすぎず、かれのように、一見、紳士のような顔をしているゴロツキこそ、ほんとうのゴロツキであるといって躍起になっているだけのことではないか。その浅薄やいかにせん、である。/正直なところ、わたしは、高見のようなゴロツキ気どりの紳士たちには、まったくあきあきしているのだ。かれらの御大は、むろん荷風老である。ジイサンが『歓楽』のなかで「詩人は無用の徒である、無頼漢である。……悪草である、毒草である。」とかなんとか、いかにもヨーロッパの世紀末詩人の亜流らしいご託をならべて以来、わが東海の君子国にも偽せゴロツキの一味が雲のごとくあらわれ、高見の言葉を信ずるなら、戦後にいたってもなお、アウト・ローなどと称して、焼跡をうろつきまわっていた連中がいたということだが、適当に財布のひもをひきしめながら、適当に女あそびをしたり、適当にのんだくれたりしている紳士たちのどこにゴロツキらしいところがあるというのだ? わたしは、これまで、その種の紳士たちを、反俗的俗物と呼び、かれらにたいしては俗物以下の待遇しかあたえてこなかった。〉

これだけ読むと、当時の状況の中ではまさに『噂の真相』的な悪口にしかとらえられないかもしれませんが、ここにもやはり、目配りとして当時の思想状況というものを、無頼派や日本浪漫派的永井荷風までもっていって批判する、という姿勢は、はっきり出ていると思います。花田が常に批判の対象にするのは、ある種の実感信仰みたいなものですね。泰平がすべてであるとか、変革というものを拒否していく姿勢に対して、かれは非常に厳しい批判を常にやってきました。

『政治的動物について−現代モラリスト批判』(青木書店)というタイトルの本に収められているんですが、『市民と俗物』という文章があります。これには『林房雄』という副題がついていて、林房雄を狙上にあげています。

〈戦後、間もなく、どこかのキャバレーで偶然、林房雄に会ったわたしの友だちの一人が、林の野郎、水ぶくれみたいな面をしやがって、人生は享楽だよ、とホザいていた。ヤケになっているらしい−と憎々しげにつぶやくのをきいたとき、わたしが、さっそく、ユダに関する伝説のひとつを思い出したことはいうまでもない。〉よく分かりませんが、この調子が花田のひとつの文体です。〈わたしは、革命の波のたかまりのなかにあって意気あがり、林房雄を、「生ける屍」あつかいしているわたしの友だちに、共産主義者よりも、むしろ、ロマン主義者を感じ−そうして、いささか大袈裟な物の言い方をすれば、革命の前途に、多少、危倶の念をいだかないわけにはいかなかった。〉

これは、林房雄を肯定しながら、林房雄を批判した左翼を批判しているわけです。しかしながら、それも一筋縄でいかないのが花田のスタイルです。

〈人生は享楽だよ、というのは、いかにもゲオルグ・グロッスの画集のなかにでもみつかりそうな文句だが−しかし、グロッスなら、たぶん、そんなセリフを、吐き散らす男を、革命騒ぎなぞ眼中になく、自信満々、両方の親指をチョッキのポケットかなんかにひっかけて傲然と空うそぶいている、顎の張った、唇の厚い、みるからに成上り者らしい紳士として描き、そうして、その肖像画に、葉巻と鼻眼鏡と金鎖と−それから、ズボンの上からでも、それとはっきりその存在のわかるような、ふくれあがった股間の一物を附け加えるかもしれない、とわたしは思った。/空気を呼吸し、葡萄酒をのみ、女房と眠り、メロンを喰う、−たまには、キャバレーヘだってゆくことが、あるかもしれないが、要するに、シュトルム・ウント・ドラングの時代を通過し、最近ようやく林房雄のたどりついた平々凡々たる「市民」生活に、むろん、わたしは、すこしもケチをつけるつもりはない。とはいえ、わたしは、林のいわゆる「市民」が、グロッスの描く紳士ほど、いやらしくなく、亭主としても、おやじとしても、あるいはまた、友だちとしても、一見、まことに非のうちどころのない、感じのいい人間のようにみえるにもかかわらず、やはり、かれもまた、ボードレールの眼の仇にしていた「ブルジョア」や、ハイネの罵倒し続けた、「フィリスター」の後裔にすぎず、「市民」というよりも、むしろ、「俗物」といったほうがいっそう、ピッタリするような存在であり−したがって、かれの生活が、「俗物」の不倶載天の敵であるロマン主義者たちによって、さんざん、ケチをつけられるのは、至極、当然のことではなかろうか、と考える。ショペンハウエルのようなひとなら、たぶん、近ごろの林房雄の「市民」礼讃を、俗物根性(フィリステライ)の神格化を行なうものと断ずるでもあろう。〉

一見、林を持ち上げるようにしながら、最終的には徹底したところまで落としてしまう。批判しつくしてしまうんですね。まさに花田の批判の冴えが見事に出ているわけです。

花田の批判は非常にシニカルな様相を呈する場合もあります。これはみすず書房から出されていた『現代芸術』(一九五九年第三号)という雑誌ですが、この中に花田・吉本論争の起きる原因になった文章が収められています。『ノーチラス号反応あり』という文章ですが、ノーチラスというのは、当時のアメリカの最初の原子力潜水艦ですね。一九五四年に就航した潜水艦ですが、同時に花田はジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』というSF小説のはしりのなかに出てくるノーチラス号という潜水艦のことを思い浮かべているわけです。さらにもうひとつ、頭が弱いことを当時「脳散らす」と表現したりしていました。それも含めているわけです。もっと深読みすれば、ノーチラスという言葉はオウム貝という意味もあって、貝のように押し黙っている奴がついに反応してきたという含みがここにはあるわけです。その最初の文章が、こういう痛烈な文章なんですが、

〈最近の皇室ブームでもおもいだしたが、昔、わたしの知りあいに、すこしばかり風変りな朝鮮人の押売りがいた。すこしばかり風変わりだというのは、かれの商品が、ゴム紐や鉛筆などではなく、そのころ、「ご真影」といわれていた天皇の写真だったからだ。フロシキのなかから額ぶちいりの写真をとりだし、その写真にむかってうやうやしく一礼したあとで、買ってもらいたいといってさしだすと、そのころ田舎の小学校の校長先生など、まるで電光にでもうたれたかのように、全身コチコチになって、直立不動の姿勢をとり、反射的に写真にむかって最敬礼をおこない、つい、ふらふらとポケットから財布をひきだしてしまったらしいのである。わたしは、その日本人の弱点をたくみにつかんだ押売りの方法を、いかにも天皇制にさんざん痛めつけられてきた朝鮮人らしいおもいつきだと考えて感心した。毒をもって、毒を制す、とはこのことである。おそらくかれは、ながいあいだ行くさきざきで剣つくをくい、マゾヒズムに苦しめられてきたのであろうが−しかし、ある天気晴朗なる朝、突然、奇跡がおこって、かれのマゾヒズムを、あざやかにサディズムに転化することができたのだ。もしかすると、皇室ブームの波にのって、日本人のなかにも、いまごろ、皇太子夫妻の写真なんかをフロシキにつつんで、田舎をうろつきまわっているような連中がいるかもしれない。〉。そして、一転して〈そういえば、わたしの論敵である吉本隆明なども、どこか右の押売りに似たところがあるようである。かれのフロシキの中からとりだすものは、―相当の大ブロシキなので、そのものものしさが、すでに滑稽であるが−天皇の写真ではなく、戦争責任という無形の商品だ。〉というわけです。知識人の戦争責任の追求というのは武井さんと吉本隆明が一緒になってやっていたわけですけれども、それをやってきた吉本への批判なんですね。

この場合、もちろん、花田が彼らに戦争責任はなかったと言っているわけではありません。ただ、花田は戦争責任を問題にするのなら、戦後責任も問題にしろと言いました。この連続講座のなかで、武井さんもお話になるんじゃないかと思いますが、花田は、戦中、右翼の組織に属していたということになっているんですね。それで花田は戦後転向した、というようなとらえ方もあるわけです。私は花田は全然転向していなかったんだと思います。その辺の問題は非常に複雑なので、いま、ちょっとお話できないんですが、いずれにしても、直線的に戦争責任を追及していく、戦争責任ということをひとつの定義として、知識人を切りわけていく、というやり方に対する痛烈な椰楡ですね。それがここに出ているわけです。こうした花田の文体のダイナミズムと、迫力とは今でも充分生きていて、花田の批判精神を見てほしいということで、文章を読んでみたわけです。

花田のこうした思考方法、あるいは文体の原点、原点という言葉は花田さんも嫌いだと思うし、私もあまり使いたくありませんが、ここでは分かりやすいので、使わせていただきます。どこのあたりからこういう発想を彼はあみ出してきたのか、ということを考えてみたいと思います。これはやはり花田清輝が、若い時代に経験したシュールレアリズム、あるいはロシア・アヴァンギャルドといった、一九一〇年代・二〇年代の世界同次元的な経験があるのではないだろうか、と考えるんです。

花田が戦後書いた『アヴァンギャルド芸術』という本がありますが、この中にも「二〇年代の『アヴァンギャルド』」という文章があります。ここではフランスを中心としたアヴァンギャルドについて書かれていますが、ロシア・アヴァンギャルドなどの影響もかなりありましたし、充分意識していたと思います。ですが、ここでは芸術におけるアヴァンギャルド運動が初期に比べ、だんだん後退してくることへの批判をしています。これを読んでみると、同時代のアートの世界における動きというものをきちっとおさえているということが分かるんじゃないかと思います。この中で例えば、はっきりとアントナン・アルトーは評価し、そしてコクトーなんかは否定しているんですね。それでシュールレアリズムは「超現実主義」などと訳されていますが、シュールレアリズムというのは、無意識や下意識の世界の具象的な非合理性の映像の決定的な分析を志したんだ。少なくとも初期においてはそうだったんだ。それがだんだん後退してしまった、ということをここでは述べていますが、花田がよく引用しますように、結局花田の文体の中にあるものは、例えばロートレアモンの『マルドロールの歌』の歌の中に「ミシンとこうもり傘との手術台のうえの突然の出会いのように美しい」というのがありますね、有名な。このまさに異質なものが電撃的に出会う、ということ。これが彼の思考の、それから文体の基本にあったんじゃないかと思います。たとえば前にもふれましたが、『変形譚』では、ゲーテをゲーテとして論じていくのではなく、そこにカフカを突然くっつけてくるわけですね。そういうくくり方。こういうものを以て、花田は唯物弁証法と考えていた。弁証法と彼はしょっちゅう言うけれども、これは当時の非常に教条化した弁証法とは全く関係ないくらい柔軟なものでした。

だからレトリックというものものちに七〇年代以降になって、遅ればせながら記号論者たちが展開したようなレトリックであったし、まさにミハイール・バフチーンがとらえていたような「ポリフォニー」という要素を彼は実践していたんだと思います。これはやはり花田がアヴァンギャルドというものの中で、ロシア・アヴァンギャルドなどをかなり知っていたというということもあっただろうけれども、むしろ花田の国際的な時代感覚ですね。もちろん文体というのは文章をつくるなかで出来てきてしまうものであって、まず理論があってそういう文体をつくるわけではないと思いますけれども、音楽と同じだと思いますが、当然彼のなかには、異質なものの対立のままの統一という発想も基本にあったと思います。ロシア・アヴァンギャルドとの関係ですが、ロシア・フォルマリズムのシクロフスキーなどが言った「オストラニエーネ」という一言葉ですね、これは通常「異化」と訳されることもあるんですが、直訳の「非自動化」というふうにとらえたほうがいいんじゃないかと思います。われわれは公的なイデオロギーとか習慣とか、公式的な言語、ステロタイプな言語というものを無意識に使うわけですね。それはひとつの自動過程になるわけですね。その自動過程をいったん遮断させるわけです。すると、いままで普段あたりまえのこととして使っていた言葉が、異質なものとして見えてくる。別な姿をとってこちら側に表れてくる。そういうやり方で表現する方法、これがシクロフスキーが言った「オストラニエーネ」という方法だったわけです。これを演劇で展開し、使っていったのがブレヒトであり、さらにそれは、のちに非常に広い意味で「異化効果」、「異化」といういい方で使われるようになっていくわけです。まさにこのロシア・アヴァンギャルドのなかで出てくる「異化」、バフチーンの「ポリフォニー」が、シュールレアリズムの「突然の出会い」といった発見が花田のなかで展開されていったといっていいんじゃないか、と思います。そういう意味で花田の原点は、一九一〇年代、二〇年代にあったと言っていいと思います。

芸術の綜合化

いま、申し上げたのは、花田の基本的な部分で、これらを前提にして、花田のメディア論というところにいこうというわけですが、最初に押さえておかなければならないのは、「視聴覚論」などと言われている花田のメディア論の出てきた時点です。花田はメディア論という言葉は使っていませんが、花田はいろんなところでメディア論を展開しています。例えば映画論だけを集めた『新編映画的思考』という本を書いています。それから、先ほど紹介した武井昭夫さんとの対談『映画問答−運動族の意見』、やはりこれは武井さんとの紙上対談『新劇評判記』という演劇を取り上げながら状況を論じていく、非常に複合的なものがあります。こういうものもある種のメディア論であると考えていいと思うんですが、ここでひとつ押さえなければならないのは、花田がメディアについて言及している時点は、いつだったのか、ということですね。まず、この時点においては、マックルーハンがいなかったということをひとつ押さえる必要があります。いま、メディア論というとマックルーハンから始まったと考えられることが多いわけですが、しかしながら、花田がこの時点で視聴覚文化論のようなことを言ったときには、マックルーハンは未知の存在だったのです。これは世界的にも未知なんです。というのは、『人間拡張の原理−メディアの理解』(竹内書店、現在、『人間拡張の原理』は絶版になっていますが、いま、みすず書房から『メディア論』というタイトルで出ています)という本が日本で翻訳が発売されたのは一九六七年ですね。そしてその原典は一九六五年に出たわけです。

それに対して、花田は五〇年代後半から六〇年代にかけて視聴覚文化論ということをすでに言っているわけです。少なくともその時点においては、マックルーハンは、一般的には知られていなかったということをひとつおさえる必要があると思います。ただ、メディアにおける大きな事件が日本でもあったわけです。それは一九五三年から日本ではテレビの本放送が始まり、テレビの視聴者が登場します。これは、活字の読者とは違った一群の人びとが登場してきたということがひとつ、大きなインパクトとしてあります。そういう状況を受けたかたちで花田は、視聴覚に対する姿勢をかえようということをし始めたんだといっていいと思います。今だったら思想や文芸の批評家が映画、演劇について語るということはいくらでもあるわけですが、思想批評をやっている人がこういうことをやるというのは当時としては非常にめずらしかったんです。映画評論、演劇評論というのは分業的に分かれていたと思います。しかし、あえて花田がこういう領域に切り込んでいったということは、決して活字文化をやめて視聴覚文化にいこうとか、あるいは今まで批評を書いていたけれども、テレビの作家になっていこうとかいうことを考えていたわけでは全然ありません。そこのところが、非常に重要なポイントになっているということを押さえる必要があるんじゃないかと思います。

ここに一九五九年に出た『近代の超克』という本があります。『テレビと小説』というのは、この中に収められた長文のエッセイですが、この中で花田はまとまった形で視聴覚文化論について特徴的に論じていると思います。書き出しは、〈わたしもまた、かなり熱心なヒッチコック劇場のファンの一人らしいが、あれをみていると、ヒッチコックが、どんなにその作品の聴視される場所に細心の注意をはらって製作しているかがわかるような気がして、しばしば、微笑させられる。〉です。

テレビの『ヒッチコック劇場』を否定的媒介に使って、話を始めるわけです。それで、後半の部分にこういった言い方をします。

〈テレビ的表現と映画的表現とは、いったい、いかなる点において、相違しているのであろうか。さきにあげた『テレビは映写機か?』のなかで、ヴィスコンティの『白夜』をみとめ、映画的表現が演劇的表現によって否定されることに必ずしも不賛成ではない佐々木基一が、〉−佐々木基一さんというのは、当時、映画などメディア論を比較的熱心にやっていた花田の親しい文芸評論家の一人です−〈てっとうてつび、テレビのもつ本質的機能の一つである電波による伝達の即時性を強調し、テレビ的表現と映画的表現との同一視を拒否しているのは、映画的表現がすでにわれわれの眼にマンネリズムと化し、演劇的表現によって突破口でもつくらないかぎり、どうにもならないところまできているのに反し、テレビ的表現には、無限の可能性があり、みずからの本質的機能をあますところなく発揮することによって、映画的表現では、とうてい置き換えられない、テレビ独特の新鮮な表現を獲得することができると考えているためであろうか。たしかに伝達の即時性という点では、テレビやラジオには、映画よりも一日の長がある。〉

こう言っておいて、〈しかし〉とくるんですね。

〈しかし、そういう前提の上に立って、佐々木基一が、ナレーションの大きな役割、長いショット、物理的空間の無視、俳優の占める比重の増大などによって、テレビ的表現を、映画的表現から区別しようとするとき、ここでもまたわたしは、かれのいわゆるテレビ的表現に、演劇的表現を−すくなくとも演劇映画的表現をみいださないわけにはいかない。そして、そのすぐあとで、かれが、「わたしは、ときどき、テレビは大人も見る紙芝居ではないだろうか、といった感じにとらわれることがある。」と称し、「二次元の絵とナレーションを組合せたのが紙芝居である。あの方法を新たにテレビに生かせば、映画とはまたちがう表現領域がひらけてこないだろうか。映画のもつ完壁なリアリズムのかわりに、語り言葉のもつ効果を利用した、きわめて抽象化され、総合された映像の展開−それもまた、ひとつの方法ではないかと思う。きわめて危険をはらんだ方法ではあるが……。」とつづけるとき、わたしには、かれが、伝達の即時性の名において、テレビ的表現の今日的な在りかたを、そのままのかたちで、合理化しようと試みているのではあるまいか、といったような多少の疑いがおこらないでもない。〉

非常に明快な文章なんですが、ただ、佐々木基一が言っていることをやっぱり批判しているんですね。

〈のみならず、右の一文のなかの「きわめて抽象化され、総合された映像」といったような語句は、わたしには、正確に理解できない。なぜなち、わたしの独断によれば、純粋化=抽象化=高踏化の三位一体と、綜合化=具体化=大衆化のそれとは、まったく相反する方向を目ざすものであって、無造作に統一できるものではないとおもうからだ。〉

花田には基本的に映像のショットがどうのこうのということよりも、そのメディアと視聴者との関係というものをどう変えていくか、ということが基本にあるんです。それは、小説の場合の読者との関係と同じであって、小説の技法が何とかかんとか、ということではないんじゃないかということをしきりに言っています。

〈伝達の即時性という点で、テレビやラジオが映画にまさっていることはいうまでもないが−したがって、佐々木基一のいうように、今後、テレビ的表現においてその本質的機能が、縦横に生かされなければならないことは、これまた、いうまでもないが−しかし、それは、主として、それのもつニュース的な要素を、いかにして表現の水準にまで高めていくかという問題であって、映画的表現から強いておのれを区別するために、あくまで生放送に固執し、場面転換の否由さからくる長いショットや、カメラの性能の悪さからくる物理的空間の無視、それらの欠陥をカバーするためのナレーションの導入や俳優の力への依存などをとりあげて、テレビ独特の表現だと弁護するにもあたるまい。わたしには、むしろ、ヴィデオ・テープを、どんどん活用することによって、映画的表現をみずからのなかにアウフヘーベンしないかぎり、テレビ的表現は、いつまでたっても、紙芝居的水準にとどまっていなければならないような気がしてならないのだ。〉と言うわけです。

この時点において、ヴィデオ・テープといっているというのは非常に鋭いと思います。

と同時に、テレビはテレビ、映画は映画、というような発想ではなく、テレビというものを本当に面白くする、テレビの表現の可能性ということを展開していく中で、テレビの前にあった映像の事実としての映画を、ちゃんと継承する、しかも継承するというのはまねをするのではなく、アウフヘーベンする、止揚する形で取り上げていかなければならないんだ、ということをここで彼は言っているわけです。

テレビと映画とは違うんだ、ということを最初に言って、テレビにしか出来ないことをやっていこうというようなことではなくて、同じ映像表現なんだから、映画というものを引き継ぐ、映画の可能性というものを徹底的に押し詰めていって、その果てにテレビの可能性というものを見いだしていくのならいいのだけれども、何かいたずらに、もう映画の時代ではないんだ、ということで、映画を捨ててしまうことは駄目なんだ、ということを彼は、ここで言おうとしているわけです。

こう言っていて、次にまたこう言うんですね。

〈といって、わたしは、佐々木基一の演劇的表現へのノスタルジアのようなものを、いささかも反動的だと考えるものではない。ラジオ・テレビ・映画・小説などは、すべてマス・コミ芸術であって、送り手と受け手とのあいだにみいだされるのは、単なる一方交通だ。しかるに、演劇においては、つねに舞台と観客とのあいだになまなましい交流があり、マス・コミ以前の芸術に特有の、送り手と受け手とのあいだに成立する相互交通が保たれている。そして、その相互交通の片鱗は、テレビにおける劇場からの中継放送にも痕跡をとどめていないわけではない。〉

要するに、テレビを批判するために演劇を持ち上げる。演劇はナマだ、それに対して映画はナマではない、という言い方があるわけです。そうではなくて、演劇がもっていた双方向性というものを、むしろ今度は、どうすればテレビで引き継ぐことができるか。そういうことを考えていかなければ駄目なんで、つまり、一つのメディアがもっている可能性というものがあるなら、それをむしろアウフヘーベンして、総合化していく、という方法を、花田ははっきりとここで提起しているわけです。そういうわけで次に−

〈したがって、わたしは、意識的にせよ、無意識的にせよ、佐々木基一のテレビ=紙芝居説には、ラジオやテレビにおける伝達の即時性を手がかりにして、マス・コミ芸術の一方交通性を克服し、そこでもまた、相互交通性〉(今でいうと、インタラクティブですね)〈を回復したいという意欲がある、とおもいたいのである。おそらくそういう行きかたは、現在においては、中継放送を芸術的表現にまでもっていく程度のことに思われるかもしれないが−しかし、ヴィデオ・テープにたよって、テレビを、映画の一変種としてとらえる行きかたよりも、はるかに前人未踏の領域をきりひらいていくことになるかもしれない。もっとも、そうはいうものの、テレビという一ジャンルの確立に拘泥して、ラジオや映画や小説の領域における表現上の達成をとりいれることをためらう必要はいささかもない。われわれは各ジャンルの交流の上に立って、大胆不敵に芸術の綜合化を実現すべきではあるまいか。ひろくいって、電波文化にたいする不当な侮蔑が、活字文化によって形成された価値感の結果であるにしても、反面、それは、電波文化が、みずからのなかに、活字文化のプラス面を、十分にとりいれていないためかもしれないのだ。〉という言い方をしています。

花田の言っている芸術の綜合化ということは、まさにそういうことなんですが、当時これは、今でいうマルチメディアみたいな発想としてとらえられた面があります。つまり、そこで映画的なもの、小説的なものを一緒にするということ、だから、演劇の舞台でビデオスクリーンを使うとか、あるいは映像表現をなかに取り入れるとか、そのような程度のものとして、要するに総合と言うものが非常に平板な集合としてとらえられていた面がかなりあったと思うんですが、花田自身はそうではなくて、それぞれのジャンルのそれぞれの違ったメディアの可能性というものをいわばぶつからせる、先ほどの花田の批評の技法の中に、「ポリフォニー」というバフチーンの技法が見られると言いましたが、まさにポリフォニーのようなメディア空間を作っていくということが、花田のひとつの提起だったと思います。まさに総合芸術という観点ですね。しかしそれは、この時点では、十分に受け止められませんでした。

ですから例えば当時、徳川無声の書いた『カツベン譚』という本が出ましたが、それを取り上げてこう言っています。〈徳川無声の『カツベン譚』によれば、映画説明者には、映画スター以上の人気があり、映画を生かすのも殺すのも、説明しだいだというので、すこぶる優遇されていたということであるが、そのさい、映画説明が、単なる解説ではなく、一個独立の表現として受けとられていたであろうことに疑問の余地はない。文学青年だった徳川無声は、まさしく佐々木基一のいうように、映画から、かれ自身の文学をつくりだしていたのである。〉

だからこの場合、花田が視聴覚文化論ということを言ったときに、小説とか評論から映画とかテレビに移行するんだ、ということではないということはここにもはっきり表れています。つまり、徳川無声は映画の人なんですが、映画の弁士ということをやるなかで、彼が映画と語りとの対決のなかで、独自の表現方法というものをあみ出していく。まさにそこから生まれた徳川無声の『カツベン譚』というもののなかに、花田は新しい文学性というものを見出していました。まさに異質なメディアとの対決のなかで、文学が活性化していく、別のものになっていくということを花田は考えたのではないでしょうか。だから花田自身がテレビのシナリオも書いているわけですけれども、それは繰り返し花田自身が言っているように活字からテレビに転向するというようなことではないのです。

花田のこうした提起、「前近代を否定的媒介にして近代を乗り越える」ということ、これはいわゆるポストモダニズムの考え方がいまのように浸透してしまっている時点では、それほど驚くべきことではないと思いますし、むしろ当然のことを言ったと思うんです。この否定的媒介にするというのは、弁証法ということなんですが、非常に教条的に弁証法というものをとらえると、単に否定の否定というとらえ方をされてしまい、全く何のことか分からない分けですが、実際、花田の前近代テーゼというものは、非常に倭小化されてとらえられてしまったと思います。ですから、そういう意味で花田は一九七〇年代に亡くなっていますが、非常に孤独だったんじゃないかと思います。彼の提起を受け止める読者に恵まれなかったような気がします。

だから、花田は常々、「猛烈な奴に出会いたい」、と言っていましたが、一九四〇年代に初めて出会った岡本太郎を除くと、ほとんどそういう機会にはめぐまれなかったと思います。岡本太郎と花田清輝はそういう意味で芸術的、思想的な対決のなかから作品をつくっていった、ということがあって、非常に面白い関係だと思います。

変化するメディアと変革の志向

そういうなかで、花田の姿勢も少しずつ変わってきます。ある種のあきらめでしょうか。一九七〇年に出た『乱世今昔譚』というエッセイがあります。花田の本は六〇年代後半からあまり出なくなりました。出ても以前に書いたものを再録したものなどでした。これには再録もありましたが、ようやく楽しいものが出たな、と喜んで買った記憶があります。このなかに『ここだけの話』というのがあり、『アンマという職業』という文章が載っています。

〈わたしは文学者と呼ばれることに違和感をもつ。学者と混同されては、お互いに迷惑である。同様に、文士という言葉もまた、士魂文才だかなんだか知らないが、サムライのしっぽをくっつけているところが、気にくわない。文士にくらべると、文人のほうが、まだマシであるが、これまた、そのすぐあとに墨客という言葉の続きそうなけはいがあって、いただけない。わたしは、墨や毛筆とは、まったく縁のない生活をしているのである。おもうに、東洋の文人は、魯迅あたりで打ち止めになったのではなかろうか。〉

相変わらず皮肉たっぷりの文章ですね。

〈どうやらわたしは、芸術家の一種らしいが、わたしのばかみしもあい、それは、いくらかアンマに似ている。「アンマ上下十六文」のあのアンマである。なぜなら、一方は精神の−他方は肉体のしこりを揉みほぐし、たとえ一時的にせよ、人びとを楽しませたいとねがっているからである。「案ずるにアンマというものは東洋人独特の健康法ではあるまいか。…」〉

こういうふうなことをずっと言って、さらにここから塙保己一やジョセフ・ケッセルの「奇跡」のテーマまで話がいっちゃうんです。すごく短い文章ながら花田の文章らしい文章なんですが、批評という仕事を、硬直した状況を揉みほぐす、あるいは、硬直した思想を揉みほぐしていく、というふうに言わざるをえなかったというのは、花田が置かれていた状況を、ひとつ象徴しているように私には思えるわけです。どこかやっぱり前よりは元気がない、と言わざるをえません。

その転機になった事件と言うのがあるわけです。それは、一九六三年に「左翼文学」という特集を『群像』(十月号)がやりました。当時の『群像』というのは、今と比べるとずいぶん違っているわけですが、平野謙、花田清輝、吉本隆明、野間宏が「左翼文学」というテーマで座談会をやっています。この中で花田が、文学者が職業に立脚した階級意識を持つ必要があるということを言ったのに対して、吉本隆明が〈自分の職業あるいは仕事を通してという論旨は分かりますが、その場合でも階級意識がくるのは別なところからくるのでしょう。必ずしも媒体物からくるのじゃない〉という反論をします。花田としてはメディアというものが作り出してしまう階級性ということを問題にしたかったのですが、吉本は否定します。それに対して花田が〈作家的な創造過程を通してそういうものをつかんでもらいたいんです。それが別から来るというふうにすぐ考えるから、自分は文学者なのか科学者なのか政治家なのか分からなくなる。君なんか詩人といわれているけれども、詩人とは人がいっているだけで、何かわからぬけれども、とにかくもやもやしたところでやっている。仕事を通してそういうものをはっきり主体的につかんでもらいたいということを言っているんです。〉

と花田が言うわけです。それに対して吉本が〈バカを言うな、俺は自分で詩人と言ったことはないよ。他人が何と言うかというのは勝手に俺に言うだけで俺に関係ない。あなたのつかむというのはどういうことなんですか〉とたんかを切ります。

これは吉本を一躍有名にした有名なバカヤロウ宣言ですが、ところがこの〈バカを言うな、俺は自分で詩人と言ったことはないよ。他人が何と言うかというのは勝手で、俺には関係ない。〉というのは吉本が後から加筆しているんですね。

花田はこの顛末を短文ながらヴィヴィッドに書いていますが、吉本は実際には、〈あなたのつかむということは、どういうことなんですか〉とほそぼそと聞いたのですね。もとの発言はここで切れているのです。だから花田は、対談というのは、対談が終わってから始まるのだと書いています。

これはフェアーじゃないということがひとつ言える分けですが、ただ、こういうことが六〇年代から始まったメディアのひとつの方向なんですね。まさに六〇年代に入って、メディアの最終場面で体裁がととのえば、それが「現実」なんだと言う方向が出てきます。これはひとつは、テレビ・メデイアというものがどんどんリアリティを作り出すようになったということと無関係ではありません。つまりテレビの映像というものは、例えば、スラムの映像が、CMの図柄になってしまうわけで、それが電子映像の怖さでもあるわけです。六〇年代も後半になってきますと、特にオリンピックを通じて、日本のテレビ・メディアの浸透は非常に拡がりますね。またテレビの表現力というものも拡がります。テレビの表現というものは、かつて、活字で考えられていたように、元の意味があって、それがストレートに出てくる、あるいは、表現をたどっていけば、そのなかに、いつも真実の意味がある、というような構造(実はこれも幻想なのですが)をもちません。電子映像というのは何かと繋がれば、それが別の意味を持ってしまいます。

まさに六〇年代後半から七〇年代にかけて、それは映像だけでなく、価値観というものもそういうふうに変わってきます。例えばビールですが、中に入っているものが実際上A、B、Cで区別できない、区別できないけれども、パッケージがいいから、おいしく感じてしまう。そういうような撃が意味を決定するような方向ですね。このようなことが六〇年代後半から日本でしだいに浸透していきます。そういう時代の象徴的な出来事として、この吉本・花田が登場している座談会があったんじゃないかと思います。

吉本隆明はそういう意味では時代の子だったんですね。モラルがどうのこうのということではなしに、書き変えるということが当然だと。吉本の文章の基本は効果なんです。ですから、花田を批判した吉本の文章がたくさんありますが、これらを細かく見ていくと分かりますが、ほとんどでたらめに近いものが多いんです。しかしそれとは関係なく、吉本の持っているバイタリティー、その文章が感じさせるバイタリティーというものがどんどん効果を持っていった。これはやはりテレビの浸透というメディア状況の変化とどこかつながっているんじゃないかと思います。事実よりも効果によってリアリティが決まってしまうという状況が、ファシズムの全般状況なのだという批判は、メディア論の世界ではたとえばマルクーゼが七〇年代に精力的にやりましたが、花田も、吉本の表現のなかにある種のファシズムを見ていました。しかし、花田は効果の組織化ということはせず、そういう状況に対して花田は自分の拠点というものをあくまで活字においていきました。従ってやはり花田の孤立するのは避けられなかったんじゃないかという気がします。

最後に柳田国男について触れたいと思います。これもやはり『近代の超克』のなかに収められている文章です。柳田は一九七〇年代にブームになりますが、それを先取りした文章で、現代の思想における柳田の重要性ということを、非常に早く見抜いているもののひとつだと思います。

花田は、まず、柳田は口承文化とかそういうものを重視して、活字文化を攻撃しているようにとらまえがちだけれども・それは違うんじゃないか、ということを言います。

柳田を評価する場合、まず前近代の文化を研究した研究者としてとらえ、その一方に近代というものを対比する、というところがあるわけだけれども、柳田が考えていたことはそんなことではないんじゃないか、ということを柳田の『藁しべ長者と蜂』という文章を取り上げながら論じています。テーマは、口承文化ですが、面白いことにワルター・ベンヤミンが同じことを言っているんです。六〇年代になってドイツで「受容の美学」ということが言われて、作品の意味づけをしていくのは読者なんだ、という方向が出てきます。レーザーシャフトとか、読者性というようなことが言われるようになってきます。ベンヤミンはそれを先取りしたかたちで言っているわけですが、花田は、まさにベンヤミンの目で柳田を読みなおします。要するに口承文学というのは、語り手はもちろんいるわけですが、その語りに意味づけをしていくのは、それぞれそれを聞いている人たちなんだと。それが昔話・民話のひとつの基本形態としてある。それに対して活字の世界では、作者がいて、作者がひとつのイデーを提起して、読者がそれをつかまえるという構造を(特に近代文学の世界では)前提してきたわけだけれど、むしろ、そういう構造自体を崩して活字文化.活字表現というものを読者のほうに預けてしまうという読み方の変革というものを、この前近代的な文学との対決のなかで展開出来るんじゃないか、そうなってくると作者の自己組織ではなくて、読者の集団的主体の形成のようなものが重要になってくるんじゃないか、ということを花田は問題にするわけです。それから活字文化以前の大衆自身の手によって作り上げられてきた視聴覚文化の伝統というものをもういちど取り上げ、それを活字にも生かしていく。活字の読者がそれを前近代的なものとして切り捨てていくのではなくて、とらえ返していくということなんです。花田自身の文章によると、こういうことになります。

〈…活字文化をかえりみないということを意味しない。それのもつ固定性、抽象性、純粋性、高踏性をもう一度、あたらしい視聴覚文化のなかで、流動化し、具体化し、綜合化し、さらにまた、大衆化するということなのである。それでは、視聴覚文化の特徴は、たとえば民間伝説などでは、具体的にいかなる点にあらわれているであろうか。〉

これがのちに、花田の一連の歴史物を書かせるひとつの動機になっていくわけです

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