『社会評論』107号 発行=小川町企画 販売=土曜美術社出版販売 1997年8月

連続講座「花田清輝−その芸術と思想」第三回

非暴力への想像力−『鳥獣戯話』をめぐって

立野正裕

本稿は、小川町企画主催の連続講座「花田清輝―その芸術と思想(全五回)」の第三回として、一九九七年一月十七日、本郷文化フォーラムで行なった報告を文章にしたものです。ただし、文章をまとめるにあたって多少構成を変えたり、報告後の討論内容を本文に織り込んだりしたことをお断りするとともに、当日参加された方々からのご協力に感謝します。なお、使用した花田清輝文献のうち、『鳥獣戯話』は講談社文芸文庫版『鳥獣戯話・小説平家』を使用し、他の著作はすべて講談社版『花田清輝全集』に依拠しました。

1 とり、けもの、たわむればなし

一九六二年、いまから三十五年前になりますが、花田清輝は『鳥獣戯話』という小説を刊行しました。その後、『俳優修業』『小説平家』『室町小説集』と続く連作小説集が書かれますが、いずれの作品も、現代のような転形期における暴力と非暴力との対立を主題として、非暴力的なものによって暴力的なものを克服することを目指したものにほかなりません。

といっても、私が今日この講座で取り上げるのは、連作の出発点となった『鳥獣戯話』だけですが、あらかじめお断りしておかなければならないのは、物語の内容をテクスト論として分析的に論じるつもりが私にない、ということなんです。むしろ、この作品を手がかりにしながら、花田の非暴力思想を想像力の問題としてとらえたい。そのことによって、今日的文学の可能性に対し、一つの実践的な光が当てられるのではなかろうか。これが私の目指したいと思っていることなのです。この小説は、一九六〇年の『群像』六月号に「群猿図」が掲載され、ついで翌六一年同誌六月号に「狐草紙」が、六二年同誌一月号に「みみずく大名」が発表されました。合わせて三章からなっていますが、まずこの「鳥獣戯話」という題名ですね。中野重治の『緊急順不同』に、これは「トリケモノタワムレバナシ」と読むのではないか、という条りがありまして(「新日本文学』一九七四年十二月号、一〇〇ページ)、その題名の読み方自体に、この小説の性格が的確に定義されていると言ってもいい。実録小説または歴史小説ですが、内容が戯れの話であるということは、近代リアリズム小説に対しても、また物語文学に対しても、それがパロディもしくはファルスであることを意味しています。

けれども、題名の読み方に関しては、ここで私はあえて中野説を採用せず、当面「チョウジュウギワ」と読むことにします。花田は「鳥獣戯画」という短文の中で、「わたしが、『鳥獣戯画』をあきらかに意識しながら、『鳥獣戯話』という小説をかいたさい、その題名に、これまでつかわれてきた『戯語』という言葉をさけて、わざわざ、未熟な『戯話』という言葉をえらんだのは、本当らしい嘘にすぎない物語文学を否定して、嘘らしい本当によってつらぬかれた説話文学へむかって、一歩前進したいと考えたからでした。」と書いています(花田清輝全集、第十二巻所収、二六四ページ。以下、全集と略す)。この引用は後半が重要なのですが、とにかくギガ、ギゴとくれば、やはりギワと読まないとなんだか具合がよくない。

2 トラ、トラ、トラ

トラはなにしろ猛獣であるということになってますね。暴力的なるものの象徴にほかならない。そのトラの正体を、花田は「一歩、一歩」明らかにしていかなければならなかった、と別の文章で書いている。「猛獣と対決したことのない人間だけが、かえって相手の残酷さを強調するものかもしれません。」と言って、猛獣と思われているトラを、花田は「大きなネコ」としてとらえる。そして、こんなふうに述べています。

「カタチにさえこだわらなければ、わたしたちの魂のジャングルのなかには、いくらでも猛獣のむれが発見できるのではないでしょうか。わたしには、そこにはアジアやアフリカの奥地と同様、みなれない奇怪な鳥やけものたちが、いっぱい、とんだり、はねたりしているような気がしてなりません。むろん、トラもまた、大きな濡れた鼻づらを光らせてるにきまっています。そうおもって、わたしは、『鳥獣戯話』という小説をかきました。それは最初、トラだと自分のことを考えていた男が、けっきょく、ミミズクにすぎなかったことを自覚する、といったようなはなしでした。」(「桂ユキ子」全集第十一巻所収、一七六ページ)。

トラとは、『鳥獣戯話』の事実上の主人公である武田信虎を指しています。第三章でミミズクについて描かれるのは、第一章のトラと対照させられるわけですから、まあ、非暴力的なものの象徴と解されねばならない。とはいっても、両者の対照は機械的なものでも、結果的なものでもなく、まさに「一歩、一歩、その正体をあきらかにしてい」く過程で際立ってくる、そういう対照法なんです。

信虎が、最初は自分も暴力的なものの権化・戦国の虎だと思っていたけれども、謀略によって自分の息子・信玄に追放され、何十年も諸国を渡り歩く破目に陥った。だが、その渡り歩いて行く過程で、次第次第に信虎は変貌して行った。そしてしまいには、とうとう暴力的なものの反対物に変身するにいたった。その変身を信虎にうながしたものはなんであったろうか、というふうに問題が深められてゆく。

3 『鳥獣戯話』執筆前後の状況

冒頭に断りましたように、私の話はこの小説の物語に即して分析してゆくのではありませんから、小説の内容に入る前に、この作品が書かれた前後の状況というか外的条件を少しばかり見ておきたい。と申しますのも、その状況や条件は、当時よりもむしろ現在のほうがますます強くなっていて、『鳥獣戯話』が今日いよいよ面白いと思われるような条件もまた、そこにいよいよ鮮明に出てきていると私には感じられるからです。したがって、その両方の状況ないし条件のうち、当時から現在にかけて変わらない、どころかかえって度合を強めてきている現実の側面について、若干見ておきたい。『鳥獣戯話』は、本としては一九六二年に出ているわけですが、執筆当時は六〇年安保直後の時代でした。当然、五、六〇年代の全学連運動の変質をも花田はにらんでいた。六〇年十月には、社会党委員長の浅沼稲次郎が講演中に右翼の少年テロリストに刺殺されています。三井・三池炭坑争議もこの年です。また、五〇年代後半から六〇年代の初めにかけて、『近代文学』の平野謙や埴谷雄高、また高見順との間で行なわれたいわゆる「主体性論争」、および「モラリスト論争」、またそれに続いて行なわれた吉本隆明との論争があって、『鳥獣戯話』はそれら息もつがせぬ諸論争が一段落してから書き出されているのです。

『鳥獣戯話』をめぐるいろいろな論評のうち、否定的批評の最大公約数を表わしているとみなし得るのは、谷川雁の批判ではないでしょうか。谷川の花田批判の骨子は、六〇年安保前後の日本のトータルな状況を見る目を花田が失ったという指摘に尽きます。したがって、谷川も、吉本隆明との論争において花田が敗れたと見る点では他の人々と同じです。谷川は、花田が古本に敗れたのは、六〇年前後に吉本が、状況全体をつかまえる視点をなんとか探そうと悪戦苦闘していたのに対し、花田はもっぱら個別化したパターンだけに閉じこもり、そうすることによって状況そのものからはじき出されてしまい、アクチュアルな言説ができなくなってしまったからだ、というような図式を作っている。(ちなみに、花田は『鳥獣戯話』執筆最中の六一年十二月、「統制違反」のゆえをもって日本共産党を除名されています。)

しかし、こういうことがあるのです。主体性論争、モラリスト論争において、その主体性論者たちとモラリストたちとは相互に関連し合っている。近代文学の文学者たちと戦後派文学、もう少し広げて高見順の転向文学など、それら文学全体に支配的な考え方、つまり近代小説をどう確立するか、また近代的主体性をどう組み立てるかというときに、当然そこに伴うモラルの問題があるわけですが、それがさまざまな意味で転向者心性を貼りつかせている。花田が関わった論争の基礎には、そういった傾向や心性全体に対する花田の根本的な批判があったのです。六〇年代の安保闘争をめぐる問題と戦い方の模索の中で、いわゆる新左翼が出現してきますけれども、これはなにも六〇年代にいきなり出てきたのではない。五〇年代の後半から学生層の間に広まりつつあった傾向が、学生運動の中ではっきりと新左翼的な発想として出てきた。

相当に暴力的で、党派闘争においても暴力的だったこの時代の運動に対して、花田は直接的なテーゼを示すというのではないけれども、自分の体験を含めてこれまでずっと追求してきた非暴力的な闘争形態の持つ有効性を、どう表現していこうかという問題が絶えず念頭にあったと恩います。『鳥獣戯話』を始めとする連作小説はそこから出てきたのであって、その問題意識と状況との関連性が、谷川雁ら批判者たちに、果たしてどれほど理解できていたのだろうかと現在では思われます。

4 戦国大名は暴力団のボスである

文学的な出来事として言えば、六〇年には、次期の連続講座で取り上げる予定になっている大西巨人の『神聖喜劇』の連載が、武井昭夫編集長のもとで『新日本文学』誌上に始まっていますし、島尾敏雄の『死の刺』も発表されています。それから、深沢七郎の『風流夢譚』が発表されたのもこの年。深沢の小説をめぐって、論議が沸騰しただけでなく、いわゆる嶋中事件が起きました(六一年二月)。これは右翼のテロリズムがジャーナリズムを屈伏させた例として記憶されるべきですが、六一年には大江健三郎の政治小説『セヴンティーン』をめぐって、またもや右翼が言論に圧迫を加え、出版社が謝罪するという出版ジャーナリズム再度の後退を示しました。むろん、当時の新日本文学会や文芸家協会言論委員会などが、これら相次ぐ右翼テロに対し、抗議声明を出したことも記憶されなくてはなりませんが。しかし、花田ならば、抗議声明を出すよりも、口舌の徒なら口舌の徒らしく、なぜ作品を産み出すことによって暴力との対決に「参加」しないのか、と言ったことでしょう。

また、そのころ、時代小説の分野で言えば、山岡荘八の『徳川家康』という膨大な長編小説が婉々と連載されていました(一九五三−六七年)。いまでも、たいていの書店でこの長大な時代小説を文庫で容易に購入することができますから、まあ、ロングセラーと言っていい。この「徳川家康一に触れて一花田は「転形期における伝統芸術」(一九六五年)の中で、こう述べています。

「近ごろでは、みんな徳川家康を偉い人のように思っているらしいけど、家康とか信長とか秀吉とか、みんな暴力団のボスなんです。もちろんぼくの主人公もあまり偉くも聡明でもありませんが、それでもそれらの人物に対抗して『非暴カ』の思想をもって戦国時代に行動した。最初は彼らの同類だったんだけれど、だんだん変質してゆきます。その過程を描いてみようと思ったのです。」(全集第十三巻所収、一九七ページ)。

家康・信長・秀吉、みんな暴力団のボスだなんて、あんまり乱暴じゃないかという意見もありそうですね。たとえば、中山義秀、坂口安吾、新田次郎、遠藤周作、井上靖、司馬遼太郎、津本陽など、戦国時代を英雄の時代として書いてきている作家の名前をいくらでも列挙することができますし、現行の雑誌などでも、『歴史読本』とか『プレジデント』とか、「乱世を生きる心掛けに学ぶ」だの、「強力なリーダーシップとは何か」だの、似たり寄ったりの戦国武将特集を経営雑誌が飽かず繰り返しています。

新しいところでは、昨年出版された評論で、秋山駿の『信長』(新潮社刊)というのもありました。評論にしてはかなり売れていると見えて、『信長』の私の手もとにある本は、今年(九七年)一月二十日で一四刷となっています。こんな小説でもない本が、いまどきどうして売れるのか。秋山自身の言葉どおり、それは「信長のお蔭である」と言うほかないでしょう。秋山は続けてこう書いています。

「日本の男は信長好きであった。どんな男の心の底にも、0.1パーセントくらいの信長像が眠っている。つまり、精神や行動の上での、創造と破壊による徹底した現実改変の意志が。信長とは、いわば、男性原理というものであったか。」(「鉄張りの船」『信長発見』所収、小沢書店刊、一七〇ページ)。

信長を「男性原理」に置き換えるならぱ、「どんな男の心の底にも、0.1パーセントくらい」どころではない。そもそも、平均的な日本人男性の心の底には、七〇パーセントくらいの戦国武将像がうごめいていると言わなくてはならないんじゃないでしょうか。いつの時代も戦国ブームがけっして下火にならないのが、そのなによりの証拠です。それを花田流に言えば、「わたしたちの魂のジャングルのなかには、いくらでも猛獣のむれが発見できる」ということになります。つまり、決まりきった大衆的思考による「決まり文句」としての物語の定型が、信長・秀吉・家康・信玄・謙信といったおなじみの猛獣的な英雄イメージとなって、大衆の胸の中に強固に住み着いている。

中山義秀の描く信長や、今日の直木賞作家たちの描く大衆的な信長像といったものからは、信長というような人物は、あたかもほとんど天才的な武将であって、しかも歴史の未来についての展望を持ったような稀有の人物としてとらえられるだけですけれども、その中にあって異彩を放っているのは、まあ、坂口安吾の『信長』(一九五三年)くらいでしょうか。あれは、残念ながら桶狭間の合戦のあとがなく、尻切れトンボみたいな小説ですが、少なくとも前半部分は講談調のファルスの文体で書かれていて痛快無比、部分的には花田的主張ともつながるような民衆的視点もないわけでなく、戦国侍の脱神秘化をはかっている。しかし、英雄信長の脱神話化というところまでは行っていない。

そこへゆくと、花田の『鳥獣戯話』の中の信長像はいっそうファルス的人物であって、巷の落首におびえたり、将軍義昭なんかに振り回されたりして右往左往している。そしてそれを裏で操っているのがじつは信虎(道有)だった、という構想になっている。『信長公記』や『甲陽軍鑑』の花田流の読み替えによって、信長の英雄性とか、悲劇の武将といったような手垢のついた陳套なイメージが次々にはぎ取られてゆくのです。

これはファルスとして方法化された「戯話」ですから、当然『信長公記』といった武将臣下の手になるオフィシャル.ストーリーとは背馳する。どこまでも語り手は「民衆の眼」をもって民衆の側からとらえなおそうとしている。といって、民衆の側に立った「史実」の追求としてではなく、花田の独特の文体の独特たるゆえんは、大衆心性そのものの脱神話化ないし客観化を目的としているところにあります。その客観化を通じて、読者大衆の視界を、非暴力的想像力の創出に向けて基礎づけようとするところに、花田の説話文学が成り立っているわけです。もっとも、花田の非暴力論そのものは、『鳥獣戯話』で初めて出てきたわけではなく、すでに『復興期の精神』から言っていることの持続的展開です。たとえば、「天体図−コペルニクス」では、戦わないことこそ戦いだと花田は書いている。これこそ非暴力のイメージの典型と言ってもいいんですね。ただ、そのイメージの表現の仕方は、やはり、執筆時の時代的条件を反映して、『復興期の精神』と『鳥獣戯話』とではかなりちがっている。そのちがいについては、私はまたあとで触れるつもりです。

5 戦争と芸術との「対応」

秋山の『信長』は徹頭徹尾ショーヴィニズム(ウルトラ・ナショナリズム)の本ですが、その中に、「戦争と平和という意識」だとか、ナポレオン言行録だとかが盛んに引き合いに出されるので、おかげで私は『戦争と平和』の作者、ナポレオンおよびナポレオン史観をこきおろしたトルストイを想起させられました。なかでも私のトルストイ連想をいちばん刺戟したのは、秋山が戦争を制作途上の芸術作品になぞらえているあたりです(一七九、一八ニページなど)。トルストイに『芸術論』というはなはだ不人気の著述がありますね。その冒頭で、トルストイもまた戦争と芸術とのあいだに対応を見いだしています。このトルストイの芸術論そのものが、あとで花田の非秀論と関係してきますから、いくらか長い引用になりますが読んでみましょう。

「何十万という労働者−大工、石屋、ペンキ職、指物師、室内装飾人、仕立屋、理髪師、宝石商、鋳物屋、植字工−は芸術の要求を満たすために苛酷な労働のうちにその生涯を過ごしてしまう。とすると、おそらく、戦争を除けば、ほかに人間の仕事のうちでこれほど労力を食うものはあるまいと思われる。(改行)しかもこの事業にはかくも膨大な労力が費やされるばかりではない。−そのためには、戦争の場合と同様、直接に人命までも消費される−何十万という人たちが若い頃から全生涯を捧げて、非常に速く足を廻すことを習ったり(舞踊家)、鍵盤や絃を、非常に速く掻き鳴らすことを覚えたり(音楽家)、絵具で描いたり、眼に入るものを何でもスケッチすることを習ったり(画家)、さては、あらゆる語句をあらゆる調子に移しかえて、その一つ一つの言葉に韻をあてはめられるように勉強したりしている。そして、こういう人たちにかぎって、根は非常に善良で、利口で、どんな有益な事業にでも向く人たちなのに、こういう、人間を愚にかえすような、特殊な仕事に携わっているうちに偏屈になり、生活上の一切の真面目な出来事に対して鈍感となり、一面的となり、ただ足や、舌や、指をねじり回すことしかできない専門家をもって自ら満足するようになってしまうのである。」(角川文庫、八ページ。引用にあたって表記を現代仮名遣いに変えた)。

芸術という事業と戦争という事業との間に対応関係を見いだしている点では同じでも、危機意識の深さという点では、トルストイと秋山とのあいだに共通のものがまったくないことは誰の目にも明らかでしょう。秋山は、戦争は芸術作品を作り上げる過程、つまり創造する過程に似ているなどと太平楽を並べるのですが、事柄を(信長という)一個の「専門家」に即してのみ考えている。「何十万という労働者」の介在なくして、どうしてこれらの事業が可能となるのか、そこを秋山という人はてんで考えてもみないらしい。このような専門家主義的な観点に立って「現実改変の意志」を現実のものにしようとする大衆心性のことを、正真正銘のショーヴィニズムと呼ぶのです。この言葉がショーヴァンという熱狂的なナポレオン崇拝者に由来しているのも、ナポレオン好きの秋山に似つかわしいと言えないこともない。

反対にトルストイは、対応関係をあくまで人民大衆の生活に即して見ています。戦争も芸術も人民の膨大な労力を食らい尽くす、つまり生産でなく消費する一方であるところが似ている、と言っている。トルストイの辛辣な芸術論はこの現実的な認識のうえに立っているわけで、芸術活動一般を、戦争や暴力に原理的に対立する平和事業であるなどとは毛頭考えていない。

こういうリアリストの冷厳な眼から見ると、戦争も芸術も、ただ一人の天才の仕事であるとするような天才主義・英雄主義をこと挙げしているだけの観念的な信長像など、英雄コンプレックスに骨の髄までやられた和製ショーヴァンの戯言、つまりタワゴトでしかないでしょう。

戦争と平和との関係、あるいは戦争と芸術との対応関係というものはへそれを共通関係としてとらえるにせよ、対立関係としてとらえるにせよ、単純に並べてみたって意味がないのです。われわれが暴力と非暴力との関係を考えるうえでは、芸術を初めから非暴力的なものととらえたり、芸術をもって暴力つまり戦争と対立させたりすること、いずれもノンセンスでしかない。このことは、芸術家の戦争責任という問題意識を持つ人にはあまりにも自明のことです。したがって、問題はつねに、それが誰にとっての芸術なのか、なんのための芸術なのか、ということであります。

そこのところを明らかにするため、もう一つ例を挙げましょう。現在の人気作家の一人・津本陽に『武田信玄』という小説がありますね。そこに次のような叙述が読まれる。

「織田勢が押し寄せると地元の百姓たちはわが家を焼き払い、信忠の麾下に加わってくる。」(講談社文庫、下巻、二六五ページ)。

ここは太田牛一の『信長公記』巻十五「木曾義政忠節の事」の「先々より百姓ども己々か家に火を懸け、罷り出で候なり。」という条りを踏まえているわけでしょう(『改訂信長公記』桑田忠親校注、新人物往来社刊、三五一ページ)。秋山の『信長』にも同じ箇所が引かれています(四一ニページ)。戦乱となれば地元の百姓が自分の家を焼き払うというのを、太田牛一を始めこれらの現代の著者たちも、こともなげに書き流している。大衆時代小説として読んでいると気がつきにくいような、こういう一見さりげない叙述をとおして、記録作家や小説家や評論家の頭の中で、「百姓ども」の生活なぞはあってなきがごとし、歴史が動くときには関係がない、家を焼くぐらいは当たり前のことだ、といったふうに考えられていることが明け透けに見えるような気がする。『鳥獣戯話』の語り手の言葉を借りれば、「いくさに明け、いくさに暮れていったとはいえ、それをただ、軍人の眼だけでとらえたのでは、むろん、片手落ちのそしりをまぬがれまい。」(第二章「狐草紙」五五ページ)といったところですが、これらはほんの一、二例でしかないのです。

歴史家も批評家も作家も本来口舌の徒である以上、偏見や先入観にたぶらかされない公平な立場から、自由な発想で現実と歴史を見なくてはならないのに、戦国時代つまり修羅の時代をあつかう段になると、にわかに自分の眼が武士的なまなざし、暴力を行使する側のまなざし、つまり権力の側の眼に変わってしまう。これは、いったいどうしたわけか。一つには、むろん著述家がだらしないのです。本を売るために大衆の期待に迎合するからでしょう。つまり大衆が作家を制肘しているわけです。ということは、大衆の中の根強い猛獣コンプレックスないし英雄願望が、作家に「武士の眼」を要求しているわけで、問題はその「武士の眼」が支配階級の眼にほかならないことなんですね。支配階級の眼が大衆の精神の内部を規定しているんです。作者も読者も戦国武将の暴力的イリュージョンの定型的な語り方の通念によって支配されている、という事態が今日なお盛んな戦国ブームをかたちづくっている大衆的心理条件にほかならない。

したがって、作家の側に即して言うと、作品の主人公が時代状況の中で変身してゆくというプロセスを描く場合、作家自身が、自らの変身を見つめるという内部へのまなざしを持たないなら、叙述があらかじめ武士の眼によって規定されてしまうほかないのは当たり前すぎるほど当たり前なのです。ですから、非暴力の想像力の可能性を追求するにあたっては、これらブーム便乗型の戦国もの作家たちにかかずらうよりも、むしろ、根強いブームの基礎にある大衆心性との対決というところから、われわれは考えなくてはならないでしょう。

6 トルストイの『芸術論』

そこで、先ほどのトルストイの『芸術論』ですが、花田は早くからこの本に注目していた一人でした。この本は、シェークスピアやダンテやゲーテまで否定するような極端なものなので、花田といえども全面的に賛意を表明しているわけではない。にもかかわらず、トルストイが言おうとしていることの真意を真剣に考えるべきだと花田は言います。たとえば、戦後間もなくの一九四八年六月、夜の会主催の公開討論会の一つで報告された「リアリズム序説」。その中で、すでに花田は、アヴァンギャルド芸術の問題を、ディズニーのアニメーション制作方法や古代エジプト芸術とならべて、トルストイの民話文学の在り方とも関連させているのです。

「トルストイの『芸術論』は、何か彼が闘争を放棄して信仰みたいなものに愚かれ、宗教的偏向に支配されながら語った『芸術論』であるかのように受取られているが、あの中に含まれている深刻な笑みみたいなもの、同時にそれは辛辣なリアリストの自己批判ですが、それらの要素は相当真面目に受取られなければならぬと思う。その結果としての、実証としての彼の扱っている童話とか、或いは民話とかいうものは、一つのリアリズム克服の形として出てきているということもやはり冷静に受取られていいんじゃないかと思います。」(全集第三巻、一八七ページ)。

トルストイは、大衆に語りかけられないような、民衆の心に届かないような言葉というものは、芸術・文学として駄目なのだと言う。そういう基準にしたがうと、ベートーヴェンもモーツァルトも駄目ということになってくる。シェークスピアまでも否定してしまう。今日のシェークスピア研究では、エリザベス朝時代の王侯貴族も下層階級も同じグローブ座に行って一緒に楽しんだということが明らかにされていますし、ロベルト・ヴァイマンの『シェークスピアと民衆演劇の伝統』(ドイツ語版一九六七年、英語版七八年、日本語版[みすず書房]八六年刊)のように、シェークスピア劇を十六、七世紀以前のイングランドの民俗劇やその他のフォークロアの伝統と関連づけた画期的な労作も出ています。おそらく、トルストイはドイツのシユレーゲルなど、彼の時代までのシェークスピア研究の高踏主義ないしアカデミズムというものの影響があって、そこから全否定のような激烈な批判が出てきたのではないかと思われますが、自身の作品、「戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』をも容赦なく否定して、自分が書いたものの中で真に民衆と民衆、人間と人間とを結束させるような作品は、「神は真理を見たまう」など民話一、二編だけだと言いきっているんですね(角川文庫、一八四ページ参照)。いかにも極端なようではありますが、近代リアリズムに対する苛烈な自己批判があるのです。そこに花田は注目しました。

近代リアリズムのプロヴィンシャリズム、つまり枝葉末節にこだわる精緻主義と似て非なるものは、歴史上最も徹底したリアリズムの発生を見た古代エジプト芸術である、と花田は言っています。トルストイは、現代の名だたる長編小説からディテールを取り去ったら、そこにいったいなにが残るか、現在の作品はその大半がリアリズムと呼ばれるプロヴインシャリズムでしかないじゃないか、と言っている。このトルストイのリアリズム批判は、一見、花田の言うエジブト彫刻のリアリズムをも串刺しにするかに見えるんですが、そうではない。花田はこう述べています。

「エジプトの彫刻の有っている環末なまでのリアリズムというものはどこから出てきたかというと、やはりそれを支えているものは観念的なもの、霊魂不滅というものに対する信仰というものが中心になっている。それでしかも制作過程においてはどこまでも即物的なんです。……あれは死骸を前に置いて、彫刻家はミイラを作る男と協力して、死体を崩壊しないようにしてその彫刻を作り上げた。全然屍体というものと対決しながら作ってゆくという過程が認められると思うんです。従って実証的な科学的な操作がそこに行われてゆくわけです。」(全集第三巻所収、一八六ページ)。

右の引用のなかほど、「それでしかも」というところを「ところがしかし」と言い替えると、あるいは意味がもっとはっきりするかもしれません。いずれにせよ、これは、前近代を否定的媒介にして近代を乗り越えるという花田的観点からの着眼であって、トルストイの民話への肯定的評価も同じ根から出ている。従来、リアリズム批判とかアヴァンギャルドと言えば、シュールリアリズムとかアブストラクトとか、なんだかわけのわからないものでなければならないという思い込みがあったのだが、そもそもそういう固定観念を乗り越えなければならない、と花田は言う。そのさい、花田の念頭にあったのは、繰り返して言いますが「大衆の生活」に即した「単純化」ということでした。

「もっと一般の大衆、人民というものがそのままそっくりすぐ飛び付ける、すぐわかるというもので、しかも芸術的に勝れたものであるべきだ。碩末な末節拘泥的な写真的なリアリズムは、むしろそれ自体が大衆の生活と非常に遊離したものであるということ。それは全然一つの専門家の間でのみ、そのうまさとか面白さというものが鑑賞され褒められるというようなものにだんだん転化してゆく。それではどうしても駄目だ。もっともっと単純化していいと思う。」(同右、一八七ページ)。

先ほど私はかなり長い引用をトルストイからしましたが、ここで花田が熱を込めて語っていることは、内容的にはトルストイのそれとほとんどそのままであると言っていいんですね。つまり、人々の関係を強化するというよりも、逆に離間させてしまいかねない芸術の「専門家」主義に対する根本的な批判から花田も出発しているということです。

近代リアリズムの職能主義的洗練化・精級化は、かえって大衆からの遊離を招いた。しかも、現行のドキュメンタリズムや記録文学では、その近代リアリズムの限界が方法的に乗り越えられていない。だから、もういっぺんその在り方を徹底的に疑ってみる必要がある。その懐疑の論理の筋道に立って、花田はアヴァンギャルドということを言い、かつドキュメンタリズムや記録文学というものの可能性を、もういちど見直す必要があると言ったのです。花田が、古代エジプトの彫刻に見られるリアリズムに目を向けるのも、ポイントはそこにある。ではなぜ、そういうリアリズムがあの遠い時代に可能だったのか。

7 物と対決する

花田の推論をパラフレーズしますと、古代エジプトの彫刻を作った人々は、ミイラ作りの人々と同じ部屋におって、死体というものをわが目でじっくりと見たにちがいない。彼らは死体という「物」とじかに対決したにちがいない。一方はミイラを作らなくてはならない。金を取るためにもじっくりと見なければならない。だってそうでしょう、失敗したら金が取れないどころか、依頼者である支配階級からどんな目に遭わされるか分からないんですから。そうすると、死体という物に向き合う自分もまた、ある意味で物の立場にまで追い詰められることになる。

他方、彫刻を作る職人もまた同じですね。その彫刻が自分の生活手段になるわけですから、下手に作ったりしようものなら、たちまち同業者に商売を奪われかねないだけでなく、支配階級の逆鱗に触れることになる。そういうわけで、彼もまたじっくりと死体を見なくてはならなかった。つまり、彼もまたある意味で、物の状態を強いられた。ほとんど物と物との対決というようなものだったろう。

それを、「リアリズム序説」とほぼ同時期に書かれた花田の「革命のプリズム」(」九四九年)の中の言葉を用いて言いかえれば、「物とみまがう状態にまで追いつめられ、物としての取扱いをうけ、きわめて非人間的な生活を余儀なくされているという意味において、物であるばかりでなく、さらにまた、物と対決し、物のメカニズムをわがものとし、物と一体となって物をつくっているという意味においても物であり、つまり、支配される物であると同時に、支配する物としても物であ」るような人々が、必然的にとらざるを得なかった態度、それが「対決」的態度だったのだということになります(全集第三巻所収、二八一ページ)。

否応なしに、そこに現実の機構仕組みに従属させられている大衆の側のリアリズムのセンスが発生する。また、実証主義のセンスが発生する。というのは、リアリズムに徹することなど考えられないような状況の中でリアリズムを打ち出さざるを得ないということは、それ自体が「対決」の要素を含むのですから、たんなる観察主義を越え、想像力の戦いであることを意味するのです。といっても職能主義的専門芸術家による芸術至上主義の個人的闘争ではなく、あくまで大衆の生活の基盤、つまり「物と一体となって物をつくっているという意味においても物であ」るような状態に結びついた支配を受ける側の大衆的想像力の戦い。

だからこそ、エジプトのむかしといえども、いや時代や権力がどんな姿をとっていようと、そういう「物」のリァリズムに裏打ちされた実証的な「眼」というものが、ほとんど逆説的に、しかし必然的に存在し得たのだ、ということになります。

8 変身のプロセスこそ

花田の思想の中で、核心をなすものの一つとして、楕円の思想を挙げなくてはなりませんが、その思想を花田はゲーテから学び取っている。事実、ゲーテを丹念に読むことは、花田の精神的故郷を訪ねることであると言っても過言ではないのです。『復興期の精神』の中の「変形譚」というエッセイは、ゲーテから二十世紀のカフカヘつながる思考の大胆な飛躍に魅力の一つがあるのですが、その「変形譚」を『鳥獣戯話』と比較してみると、一見荒唐無稽と見える後者に、前者との内容上の対応があることが分かってくる。つまり、二十世紀の変形譚とはどうあらねばならないかという問題です。そして十数年後、花田はそれを『鳥獣戯話』で実践したと言ってよい。

花田は、二十世紀文学の顕著な特徴の一つとして、人間が人間でないものに変身するというモチーフがいろいろあると述べていて、この観点から花田がしばしば取り上げる作品は、カフカの『変身』(一九」六年)とイギリスのデイヴィッド・ガーネットの『狐になった夫人』(一九二二年)であります。

人間が人間としてのアイデンティティないし自己同一性を失って、あるいははぎ取られて、人間以外のもの−動物・植物鉱物など−に変身することを強いられる。それが二十世紀の大衆の避けがたい共通の現実なのであり、そこにカフカやガーネットのようなアクチュアルな作家の想像力が集中している。したがって、ある日『変身』の主人公ザムザが目を覚ましてみると、自分が一匹の虫に変身していたという設定は、そういう共通の現実を掘り下げるための隠喩にほかならない。

もしも、虫そのものになったのでなく、虫になっているような気がしたというのであれば、それは直喩ですから比喩だとすぐに分かりますが、カフカの小説は徹頭徹尾隠喩であって、いきなり異質物のイメージが無媒介に読者に向かって差し出される。日常性そのもののようななにげない叙述が、かえって読者に強烈なショックを与えるわけです。隠喩による表現をとおして、ザムザという一個の平均的市民が、資本主義のもとでの日常生活のルーティーンそのものによって、虫以外のなにものでもないというところまで追い詰められてしまったのだ、ということが読者に理解きれる。このようにして、二十世紀市民社会の日常的現実機構の内側にガッチリとくわえこまれてしまった「物」としての現代人の存在の姿を、カフカは容赦なく描き出そうとしたのです。

しかし、花田は、カフカに代表されるような現代の市民的な変身文学が、二十世紀の課題に立ち向かっていることを高く評価しながらも、他方で、それらに対して少なからず不満を抱かないわけにはいかなかった。なぜなら、ある朝起きてみたら自分が虫に変わっていた、というのでは、その変身過程の結果は、あらかじめ物語の前提として読者に差し出されるだけではないか、と花田は言うのです。また、夫が後ろを振り返ってみたら、妻がすでに狐に変身していた、というだけでは、変身の事実がすでに生じてしまっている姿として、夫の目から眺められるだけにすぎない。

いったい、彼らはなぜ人間以外のものに変身したのか、どういう経路をたどって変身していったのか。それがいちばん肝心の問題であるにもかかわらず、具体的にそこが描かれていない。つまり、変身のプロセスが描かれない。花田に隔靴掻痒の思いをさせたのはその欠落したプロセスの部分でした。

ですから、『烏獣戯話』において、いかにして人間が人間でないものに変身してゆくかということを、克明に描き出すことによって、われわれ現代日本人の内なる根深い幻想であるところの自己同一性願望と、それと裏腹の関係にある英雄コンプレックスとを、戦国の武将というもののイメージの徹底した隠喩化によってあぶりだし、解体してゆく。そういう大衆的想像力と感受性の根本における非暴力的なるものへの転化の戦略が、花田にはあったのです。

たとえば花田の最後の小説集『室町小説集』(一九七三年)に入っている「画人伝」の中でも、「暴力にたいする暴力のたたかい以外に、それと並行して−あるいはそれの底流として、暴力にたいする非暴力のたたかいが、人眼をかすめて、ずっとたたかい続けられてきたような気がしてならないのだ。」(全集第十五巻、四五六ページ)と花田は言っています。支配階級である武家の暴力に基本的に対立したのは武家そのものではなく、その当時の農民・職人といったいわば被支配層であった。その被支配層が、武家の暴力に対して、本来非暴力的に対抗する位置にあったのです。では、彼らはなにをもって対抗手段としたかと言えば、ひたすら事態を即物的に、物との対決の気構えをもって、積極的・行動的に見ること、これでした。その一環として、一揆などの発生も見てゆくべきである。というのは、一揆はアナーキーな自暴自棄の現象ではなく、そこに被支配層のリアルな対決的まなざしがあって、しばしば冷静に計算計画されたものにほかならないからである、そこのところを見なくてはならない、と。

これは、ソレルの思想をガンジー主義者エンクルマによつてとらえ直し、近現代のデモやストライキを「非暴力的積極行動」と位置付ける花田の見方を私に思い出させる(一九六一年の「私と非暴力」[全集第十巻、二三一ページ]参照。また、七〇年の「非暴力の象徴」[全集第十四巻、二八三ページ]参照)とともに、たとえば、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームが分析した産業革命初期のラッダイト運動をも想起させます。すなわち、あのいわゆる機械打ち壊しは、時代に逆行する暴力的な狂気の行為と決めつけられてきたが、それは事実に反する。ラッダイトたちの闘いは、技術的進歩そのものに対する単純な闘いだったのではない。逆に、工場主との交渉に伴う状況を有利にするため、「労働組合運動のたんに一つのテクニック」として方法的な観点から行なわれた戦術的行動であり、同時に、ストライキ基金を持たない低賃金層のスト破りを阻止する有効な手段でもあった。そのかぎりでそれは、いまだ労働者の団結が綱領化されていない時代における原型的な「労働組合精神」の所産と見なしてしかるべき面を持っていた。このような視点の掘り起こしが、ホブズボームによって提示されているのです(「機械破壊者たち」『イギリス労働史研究』所収、ミネルヴァ書房刊、一〇ページ参照)。

いずれにせよ、なにも行政や軍事の専門家ばかりが状況を方法的に見抜いて行動に結びつけてゆくような積極性を持っていたわけではなかったのです。民衆のレベル、階級から言えば支配されている側の人々にだって、そういう能動的なまなざしがあったわけなんです。それどころか、被支配階級のあいだからこそ、物に即したリアリズムという意味で、エジプトの例に見たような即物的なリアリズムが発達する可能性があったのです。トルストイが『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』の芸術性を、大衆の結束に向かうには無力であるとして容赦なくかなぐり捨て、民話的単純さと民衆的想像力の探求へとおもむいたのも、彼のキリスト教信仰が基礎にあるにせよ、基本的にはその認識からだったと言って言えないことはないでしょう。

つまり、精級に見るとは、対決を有利に運ぶための必要から即物的に見ることなんであって、見るために見るという自己目的に根差した瑣末主義なんかではない。瑣末主義的な見方は、せいぜい大衆の生活から遊離したところで芸術的効果のために見るだけである。これに対して、即物的に見るとは、あくまで大衆の生活に即して、その生活の必要から物質的に見ることなんです。われわれは、瑣末な末節拘泥的な写真的なリアリズムを脱却して、民話的・即物的なリアリズムの可能性を掘り起こしてゆくことが必要であって、そういうものをもういちど組み立て直して提示すれば、今日の大衆の心の奥に届くものとなり得るのではないか。彼らの可能性としての即物的なリアリズムの眼を、個別単独の、もしくは烏合の衆のアナーキーな感覚としてでなく、かつてのある種の一揆にも認められたような組織された集団的な感覚としてとらえ、それを現在のコミューナルな感覚へと、有機的に連関させてゆくことができるのではないか。しかし、そのコミューナルな感覚の組織化のための想像力のかたちを、大衆や民衆のまなざしを研ぎ澄ますという観点から見ようと思うと、これを表現し得た作品が戦後の現代文学にはあまりにも蓼々、と言わなくてはならない。最近全集が刊行され出している深沢七郎の『笛吹川』(一九五八年)などは、四十年近くも前に書かれた小説ですが、依然としてまず筆頭の方に挙げられるべき例でありましょう。戦乱に巻き込まれ、次々と命を落としてゆく大衆の姿をこともなげに書くのでも、この小説の場合は、先の津本陽や秋山駿などとは、断然おもむきを異にしています。

9 深沢七郎作『笛吹川』

一九五八年六月号の『群像』誌上で、花田を含め三名の批評家が創作合評を行ない、当時発表されたばかりの深沢の『笛吹川』がその席で取り上げられた。出席者の一人・平野謙は、この小説を否定的に、あるいは批判的に読んだのですが、花田は逆にこれを高く評価して、自分もこれに対応するものをいずれ書きたいという意欲をその場で強く表明した。これがいわゆる「『笛吹川』論争」の発端となります。ここでその論争に立ち入っている時間はありませんが、とにかくその意欲から『鳥獣戯話』という小説が結実した。花田は『笛吹川』に対し、「民話のもっている二十世紀的な性格、それを意識してとらえている」(二九九ページ)文体として高い評価を与えていますが、同様に、『鳥獣戯話』で採用された説話文学の方法もまた、そういう方向を目指したのです。ここから、小説家の小沢信男のように、武田家の物語を花田が書いたのは、直接には『笛吹川』に刺戟を受けたためである、という説も出てくるわけです(「鳥獣戯話と笛吹川」全集第十二巻、月報参照)。

しかしまた別の面に強調点を置くならば、花田清輝は年来主張してきたアヴァンギャルド芸術の民衆的・大衆的表現の実践を、この『鳥獣戯話』において初めて本格的に行なったと言うこともできるのです。つまり、戦国ブームの根底にある日本的英雄複合(コンプレックス)に対する頂門の一針として、というかむしろ、そのコンプレックスの原因でもあり結果でもある暴力的心性との根本的対決の意識をもって、花田は『鳥獣戯話』を書いたにちがいない。

しかも、先ほど申しましたように、主人公は武田信玄ではなく、『甲陽軍鑑』や『武田三代軍記』の中では光の当たらない父親の信虎の方に故意に照明が当てられている。そのことによって、いわば大衆の「戦国」を見る精神的遠近法の基底に、花田はくさびを打ち込もうとした。

この新しい遠近法は、花田においては、非暴力の想像力を活字文化以後の視聴覚文化・エレクトロニクス文化との関係の中でとらえる、という問題意識と密接に対応していました。それは、芸術大衆化論・大衆芸術化論と関わる批評的問題意識の道筋から必然的に導き出されたものでありますが、その後に続いた花田の他の連作小説、ミュージカル、晩年の集団制作の試みなども、みなその実践の試みにほかならないと言えるでしょう。私が初めのほうでこの小説を今日ますます面白いと言ったのも、つまりは問題がそこのところに関わっているからにほかなりません。

10 文化連続性への感覚的危機

しかしたとえば、今日では次のような実情に目をつぶるわけにはいかなくなってきているでしょう。スヴェン・バーカーツの『グーテンベルクヘの挽歌』(フェイバー社、一九九四年刊)という本があり、邦訳されていますが、「エレクトロニクス時代における読書の運命」という副題が付いている。明らかにマクルーハンを意識していることが分かりますが、著者は活字文化とエレクトロニクス文化との断絶を非常な危機感をもって書いている。そこがマクルーハンのオプティミズムと根本的にちがってきているところです。

バーカーツは私よりもやや若い世代に属する人ですが、彼が大学で学生と一緒にヘンリー・ジェームズの小説を読んだときの経験から、こういうことを言っています。一九七〇年ぐらいに生まれた世代をはさむ両世代のあいだに活字離れが進行しているが、このことが意味するのは、たんに今の若い者はジェームズのようなある種の文学作品を読まない、といった実情にとどまらない「もつとずっと深刻な状況」である。

「というのは、じつは、われわれの集合的な、主観的な歴史の総体−われわれの社会全体の魂は、活字印刷の形で記号化されているからだ。記号化されているし、また、無数の世代の間、ことばによって、おもに書物を通して広く知らされてきたのである。(中略)もしもある人物が印刷物に背を向けて−それをあまりに鈍く、あまりに難しくて、現在のいろんな刺激に対して不適切なものだと思うなら−そのとき、その人の文化と連続性の感覚はどういうことになるだろうか?」(青土社、三六ページ)。

私も大学で英文科の教師をやっているので、このバーカーツの危機感はかなりよく分かるのです。ヘンリー・ジェームズという作家の文体は、たとえば三十歳前(一九三〇年代)のグレアム・グリーンが、「文体は複雑をきわめており、これらの作品の美しさは晩年のターナーの絵を思わせる。そこには風と光があふれているのだ。主題はきわめて曖昧であって、その輪郭を見定めるためには、明るい色彩にじいっと眼を凝らさなければならないのだ。」と形容したくらい、微妙繊細と思われていたのですが、現在の三十歳以下の青年たちにとっては、グリーンとちがってとても「光と風」どころではないでしょう。まして日本の英文科の学生たちにとっては、頭痛がするような瑣末なリアリズムの英語以外のなにものでもないだろうと思います。

こういう実情を踏まえて、バーカーツは、「エレクトロニクス文化への歴史上の突然の転換」によってわれわれにもたらされたものは、「見知らぬ場所」であり、それは「素晴らしい新世界」どころか「恐ろしい新世界」にほかならないと言うのです。

このペシミズムはマクルーハン・メディア論のオプティミズムに対するアンチテーゼでありますが、六〇年代の日本における第一次マクルーハン紹介に先だって、いち早く視聴覚文化への関心を思想として論じた感のあった花田の視聴覚文化論にとっても、やはりそのオプティミズムの今日的無効性が指摘されねばならないでしょうか。必ずしもそうではないだろう、と私は思います。というのは、私の見るところ、花田は第二次視聴覚文化に対し、必ずしもマクルーハンのようにオプティミスティックに考えていたわけではなかったからです。

花田にとって、たとえば『今昔物語』の時代における口承文芸と文字の文学との遭遇・対立のダイナミズムから学ぶことの意義は、二十世紀後半の現代において、小説に代表されるような活字文化と映画・テレビ・ラジオ等の第二次の視聴覚文化との遭遇ないし闘争から、現代の新しい説話文学のかたちが生まれてこなくてはならない、という問題意識と一つにつながっているんです。そこには現代のコミュニケーションの問題に関わる危機の意識が踏まえられている。

その危機認識のうえに立って、活字文化あるいは活字の文学と視聴覚文化あるいはエレクトロニクス文化とを、あくまで対立物としてとらえながら、対立物のまま統一にもっていかなくてはいけない、と言うんです。しかし、これは言うまでもなく文字通りのtour de forceなんですね。つまり「離れ業」あるいは「力業」である。花田はもとよりそれを熟知していた。けれども、全力を尽くしてそれをやらねばいけない、と言ったのです。もしそれを試み続けなければ、活字文化とエレクトロニクス文化とはただ離反するだけであろう、という予感が花田にはあったと私は思うのです。そしてそうなれば、危機は活字文化だけに訪れるのではない。人間の文化全体が衰弱せざるを得ない。活字文化の側に立てこもるか安住する人々は、その危機にいまだに十分気付いていないのではないか。おそらく花田の目には、そんなふうに映っていたのではないでしょうか。

11 講釈師の語りの文体

『鳥獣戯話』は、ジャンルから言えば小説であるわけですが、従来の近代小説のあり方を批判的に乗り越えるような戦後文学における表現の可能性を、花田は一貫して主張していましたから、ちょうど民話創作がトルストイの芸術論の実践であったように、花田理論の本格的な実践の試みをこの作品で追求したのだと言ってもかまわないでしょう。むろん、深沢七郎の『笛吹川』を読んだことがその直接の刺戟となったことは十分にあり得るとしても。

深沢の場合、その小説作法自体に従来から民話的な骨組みがありました。一方、花田の場合は、従来は評論の形式で自分の思想を語ってきたのです。そして、その思想の実践もまた評論というスタイルを主として取っていた。『復興期の精神』がその最たるものですが、時代における権力およびそれに迎合する大勢との対決を際立たせるため、いきおいソフィスティケーションの性質を強く打ち出さざるを得なかった。それが『鳥獣戯話』において、小説・フィクションという形式を取りながら、それを内実において近代小説の高踏的スタイルと真っ向から対立させようと意識的に試みた。すなわち、活字文化としての近代小説の高踏性を打ち破って、新たな視聴覚文化のなかで大衆化するという目的意識がそこにはあったはずです。

そこのところを、私は、小野二郎ふうに、「ようやく『鳥獣戯話』において、講釈師見てきたような嘘をつく、『しゃべるように書く』文体、この彼によってたてられた円朝から徳川夢声、橘外男、谷譲次の系譜に、批評と論理を導入して、新文体を創出したといってよいだろう。」と言いたい気がする。これはウィリアム・モリス研究家だった小野の「ディスカッション・アズ・アート」という『鳥獣戯話』論の一節なんです(著作集第三巻「ユートピアの構想」所収、晶文社刊、一七五ページ)。円朝から夢声を経て谷譲次にいたる系譜−むろん、これが日本近代文学の正統的な系譜であるとは通常誰も言わないでしょうけれども。花田が「講釈師見てきたような嘘をつく」のは、現実を即物的にとらえることが現代文学の課題である以上、実感主義やリアリズムの文体というものを批判し、いっそいかにも嘘らしさを装った文体によって、現実の中の現実に肉薄してゆく、そういう反語的な行き方を取らざるを得ないという意味で、『鳥獣戯話』の文体そのものが、花田の新しい段階を特徴的に表わしているからだ、と私は考えます。小野二郎が、この小説は「批評」と「論理」を「喋り」の文体と対立させながら対立のまま統一している、ととらえているのもその特徴のことであって、私もそこがカフカやガーネットなど、第二次大戦以前の変身文学の作家たちの文体とも決定的に異なっているところだと思います。抽象的なことばかりしゃべってきましたから、ここらで少し具体的に、花田の物語の文体に即して見てみましょうか。

12 猿知恵とは集団的な知恵である

『鳥獣戯話』第一章の「群猿図」に、猿知恵という言葉が出てきます。あまりいい言葉ではない。普通、聡明さの反対の意味で使われる言葉です。ところが、花田にかかるとこの言葉、もともとの意味は猿の集団的知恵のことを意味したのであって、猿知恵を聡明さの反対と取るヤツは、猿を椎の中で観察しているにすぎない、となる。猿を野生の集団として、その行動をとおして表われる集団的な知恵としてとらえてこそ、初めて猿知恵というものの恐るべき意味が明らかになる。

てなことを言って、花田はそのすぐ後に、「そういう意味では」と話を続けて行くんです。明らかに、これは因果的に論理を持った叙述とは言えませんね。「そういう意味では」に格別意味なんかあるようには見えない。あくまで、信虎が相当の洞察力の持ち主であったのは、彼があるがままの猿の行動から学んだからだ、というように、自分の語りの場へ話を持ってくるための付会であります。

それから、「だが、そのさい」というような切り返し。これも非因果的なつなげ方ですね。信虎がイメージしていたのは馬に乗った猿だったと言い、騎乗する群猿のイメージを花田は差し出している。それによって猿を武田騎馬軍団の集団的な強さの特徴というものに結びつけていこうとするためのテクニックなんです。といって、いきなり結びつけるのでなく、話と話とのあいだに、当時どこの百姓の厩に行ってみても、馬の手綱を取る猿の絵馬が見られた、その記憶が信虎の脳裏に蘇ったためであろう、というようなつなぎがポンと入る。すなわち、信虎が、民衆の生活に通じていたということを、さりげなくちゃんと叙述に織り込んでゆくわけですね。

そしてこんどは、「それでおもいだしたが」ときます。信虎が信玄と親子喧嘩をして、それが後に信玄による信虎追放の原因を作っていく。信玄十三歳のとき、信虎秘蔵の馬・鬼鹿毛を賜れと願い出たところ、父信虎はにべもなくはねつけた。息子は父親をなんというケチなおやじであろう、と思ったから深く恨んだ。ここの条りは『甲陽軍鑑』に出ている話でありますが、それに花田はこう付け加えるわけですね。信虎にしてみれば、息子の抜け駆けの精神を見抜いてこれを認めなかったまでのことであって、ケチの精神から馬をやるのを断ったのではない。父親の猿中心のものの見方を理解できず、あくまで人間中心のそれとしか考えられなかった息子は、当時の通念(ルーティーン)にしたがって、戦国の武将として生きていこうと思っていただけのこと。これが親子断絶の素因となり、息子の奸計による父親追放というところまでゆく。まあ、殺してしまわなかっただけマシかもしれませんが。おかげで、息子の生き方に表わされる戦国の修羅に対して、信虎は、「もう一つの修羅」の生き方を模索構想することになったのだ、というふうに花田は読者を引っぱってゆく。つまり、この「修羅」の意味がだんだん変わってゆくわけです。

「人は城人は石垣人は堀、なさけは味方あだは敵なり」という有名な武田節、それから「動かざること山のごとく、侵掠すること火のごとく、静かなること林のごとく、はやきこと風のごとし。」という孫子から引いた風林火山の有名な言葉。いかにももっともらしく人口に槍灸してますが、これらも花田にかかると、要するに猿の群れの戦いのことを言っているにすぎないってことになる。猿を馬鹿にしているわけじゃない。逆に、信虎は、猿ばかりでなく、猪、鹿、狼など、一匹のボスのもとに一つの集団をかたちづくって、一糸みだれず集団行動する獣の群れ、その戦い方に積極的に学ぼうと思ったんだ、と花田は言うのですね。

13 非因果的叙述法

以上の例でもお分かりのように、花田変身説話の叙述と叙述との間をつないでゆくのは、必ずしも因果論的な方法ではありません。連想法・留保・仄めかし・仮定法、そういった一見非論理的な文体が盛んに使われる。それから俗語とか出来合いの手垢のついた言い回し、たとえば「猿知恵」や「猿真似」といった陳套な既成表現ですね。それを故意に・自覚的に使いながら機能転換してゆく。その転換に、疑似的な因果性を装わせたりせず、あざといまでの非因果性でもって叙述してゆく。今日は会場に大学生の方も参加しているようですが、同じ戦後生まれと言っても私よりずっと若い世代の方たちには、もはや経験がないかもしれないことを言いますと、このあいだまで見ることができた講釈師や大道芸人や香具師の語り口というものは、こじつけ・飛躍・逸らしといった手練手管を巧妙に駆使する。まさにそれと同じような文体で花田も書いているんです。

「必ずしも−とは限らない」とか、「それで思い出したが」とか、「−などを思い浮かべると」とか、「そう言えば」だとか、「しかしまぁそんなことはどうでもいい」とか、「そんなことを考えていくと」とか、「もっともこれは−のためかもしれない」とか、「もっともそうは言うものの、別段」とか、そういった留保・仄めかし・仮定法・はぐらかしといった方法ですね。目で読んでいるときにはあまり顕著に感じませんが、これらの言い回しには本質的にオーラリティ(口語的性格)がある。あるいは即興性の感覚がある。前回の粉川さんの講座では、それが確かジャズのビートになぞらえられていたと思います。

それから、物語の中であつかわれる歴史書ないし史料の場合も、『武田三代軍記』や『甲陽軍鑑』など実在する文献を使うのは、たいていの時代小説もやってることですが、花田はそれらの間に偽書をそっとまぎれ込ませるというような悪戯をやる。『カルモナ書簡集』や『逍遙軒記』というような本を、これは昨年、甲府の古本屋で偶然入手したものであるが、なんて言いながら、もつともらしい顔をして引っぱってくる。

『武田三代軍記』や『甲陽軍鑑』などに信玄のこととして出ている事柄を、花田は、それは信玄にごまをするために著者たちが書いているのであって、じつはそこに書かれているようなことが信玄にできるわけがない、その証拠に、『逍遙軒記』にはそれは信虎のこととして書いてあるじゃないか、自分はこっちを信ずるものである、などとしゃあしゃあとして言うのです。その『逍遙軒記』が花田の偽書、真っ赤なでっちあげなんです。このように、隠したり糊塗したり、虚言を弄したりということを、花田は、まあ、平気の平左衛門でやっている。

これらは一方では花田の悪戯気の発露であるにもせよ、他方ではやはり、その「悪戯」がダテや酔狂で遊んでいるだけではないことに読者は注意しなければならない。芸術家の自由な立場を確保するための意識的方法であると同時に、冒頭近辺で私が引いておきましたように、重要な文学的戦略の一環でもあって、「本当らしい嘘にすぎない物語文学を否定して、嘘らしい本当によってつらぬかれた説話文学へむかって、一歩前進したい」という花田の視聴覚文化をにらんだ活字文化への批判的とらえ直しと、それは密接に関わっている。ところがそれを、われわれはとかく近代リアリズム文学に慣れた目で見るもんですから、花田の方法は胡散臭いとか不真面目きわまるとか、頭からいなしてしまうんです。しかし、いかがわしい玩具を買わせるために、それをさも貴重なもののように巧みに口上を並べ立てる大道芸人の舌のそよぎを聞くような気持ちで読んでゆくと、いやはや、じつに面白いじゃないかということになる。

14 もう一つの修羅

第二章の「狐草紙」には、中世史家・原勝郎の『中世史』および『東山時代に於ける一縉紳の生活』その他が引用されています。花田によれば、原が、その著書に三条西実隆の日常生活を取り上げているのは、応仁の乱以後の群雄割拠の状態を乱世の一語でかたづけるべきでなく、そこに日本のルネッサンス的なものを見るべきだという王張からであるが、これは、原が、明治以降勝ち戦にのぼせ上がっている同時代、つまり日本の軍国主義的傾向が盛んになってきている大正の初期に、ショーヴィニズムの表われを目の当たりにして、相当腹にすえかねるものを感じていたためであろう、と言ってます。花田の原勝郎の仕事への共感が示されているわけですが、しかし大事なのは次でしょう。

「それまで主として武士の眼でだけとらえられてきた足利時代やその末期の戦国時代を、公家の眼をとおしてとらえなおしてみせたところに、原勝郎の歴史家としての功績があるといえばいえよう。われわれの時代にしても同じことであって、なるほど、いくさに明け、いくさに暮れていったとはいえ、それをただ、軍人の眼だけでとらえたのでは、むろん、片手落ちのそしりをまぬがれまい。ところが、とくに戦国時代をあつかう段になると、わたしには、歴史家ばかりではなく、作家まで、時代をみる眼が、不意に武士的になってしまうような気がするのであるが、まちがっているであろうか。」(第二章「狐草紙」五五ページ)。

繰り返して言うまでもなく、花田がこの小説を書きたいと思った重要な動機の一つが、この条りにもはっきりと表われています。ただ、最初のルネッサンス人は、原の主張とちがって花田にとっては、三条西実隆よりむしろ道有すなわち信虎の方でありました。それは道有が本来は自らも戦国武将でありながら、やがて「もう一つの修羅」の道を歩き始めるにいたったからにほかなりません。このように、戦国時代という暴力的なもののただなかに、非暴力的なものを見いだしてゆく精神、これが花田のルネッサンス精神の基本と言っていいでしょう。そういう観点から、道有の日和見主義に対する花田の積極的評価が生まれてくるのです。

たとえば、永禄五年(一五六二年)六月の三河における一宮攻めの際、道有(信虎改め)は今川の後詰めに控えながら、八千の兵のうちただの一兵も動かさなかった。今川と徳川の衝突を見ていただけだった。しかし、一般に言われるように、道有は戦うのに厭気がさして傍観していたのではなく、「要するに、一つの修羅を生きるかわりに、もう一つの修羅を生きようと思っただけのこと」である、と花田は第二章「狐草紙」に書いています(五四ページ)。

ところが、そこいらへんのところが飲み込めないと、花田の「非暴力」がまるでトンチンカンに誤解されてしまう。たとえば、かつて全学連および全共闘運動に「卒伍」として関わったという平野栄久が、『流行と不易・花田清輝論』(近代文芸社、一九八二年刊)の中で、「六〇年安保と三池闘争の底にまで降り立った当時の谷川雁を、私は、凡百の『批評家』よりはるかに評価するものである」(八三ページ)と言い、それに対して花田は、一連の小説を書くようになってから芸術家として完成してしまったが、しょせんは「歴史」についての彼の感想と推測を語っているに過ぎない、と言ってるのなどはそのトンチンカンの最たるものです。

見られるとおり、平野の解釈は前に紹介した谷川のそれと基本的に同じであって、現実に対する花田の断念の結果、花田は芸術的には完成し、政治的にはアクチュアリティを喪失することになった、とするものです。六〇年代末の全共闘運動に対して、花田はほとんど共感を持たなかったと(これも前に)言いましたが、事実、花田は、このころ書いた「ターザンに告ぐ」(一九六九年)というエッセイの中で、「隊を組んでゲバ棒をふりまわしたり、舗道の敷石をはがして投げたりするところは、サルに似ていないこともないが、かれらがターザンであることに疑問の余地はないのである。」と椰楡を浴びせました(全集第十四巻所収、三四一ページ)。

これに対し、平野は、花田は「現象的に書いている」と反発しています。そして、たとえば六八年五月二十三日の「偉大な二〇〇メートルデモ」に際し、日大全共闘議長・秋田明大が示した「大胆さ」と「不退転の一声」について、『バリケードに賭けた青春』という本を援用しながらこう書いている。それは、直接には、座り込みをする学生たちの中に体育会系の学生たちが殴り込みをかけたときの秋田の行動についてです。

「『ヒラリと机の上に飛び乗るや、いきなり「シュプレヒコール!」と叫んだのだ。この叫びが彼我の形成を逆転させてしまった。』(中略)権力の暴力を前にしてひるまない、間髪を入れない不退転の一声が、いかに一瞬にして状況を変えたかが、手にとるように分かるではないか。花田の連作小説に描かれている『もう一つの修羅』を生きた人間の一筆一管に託した決意と、この秋田明大の一声とどこが違うのであろうか。(中略改行)もともと実力闘争のイメージは、武装蜂起にだけ収斂されるほど貧しくなく、より豊かなものであった。つまり、非暴力的な抵抗を当然のこととして含んでいたのである。」(九四−九五ページ)。

しかし、花田流に言えば、秋田明大のその「一声」こそターザンのそれなのです。花田は別のところでは、全共闘学生を、武装して信長に立ち向かった僧兵になぞらえていますが、いずれにせよ「現象的に書いている」のは平野であって、彼は問題は「どこが違う」かを、花田が言う非暴力思想との論理的関連において徹底的に吟味するべきなのです。猿から狐、そしてミミズクヘと、「もう一つの修羅」としての激しい変貌を、自らに強いることのなかった新左翼運動に、花田が思想的共感を抱くはずはありませんでした。『鳥獣戯話』の猿およびその組織のアヴァンギャルド的性格と全共闘では、てんで比較にならないのです。

ついでに言いますと、秋田明大の「間髪を入れない不退転の一声が、いかに一瞬にして状況を変えたか」と書いている平野の文から私が思い浮かべたのは、むしろ坂口安吾の『信長』の一節でした。

それは、『信長公記』の例の今川義元四万五千の大軍との決戦前夜の挿話にもとづいた場面で、信長が味方武将たちを前に馬鹿話を夜遅くまでやっただけで、作戦を練ることなくあっさりと解散を命じてしまったと書かれているところです。安吾は、その解散宣言を信長の「鶴の一声」と形容しました。そのあと「間髪を入れず」次のように叙述が続くのです。

「鶴にもピンからキリまであるらしい。三文サーカスのトウマル籠に飼われている痩せっぽちの羽のはげた鶴でも、それ相当の一声だけは張りあげることを忘れないらしいな。」(全集第九巻所収、ちくま文庫、三二五ページ)。

ただし、「痩せっぽちの羽のはげた鶴」を私が思い浮かべたのは「卒伍」の文に対してであって、必ずしも「不退転の一声」を発した「議長」に対してでなかったことを、念のため申し添えておきます。

15 『灰とダイヤモンド』論争

非暴力の想像力という観点からすれば、むしろ六〇年前後の花田清輝・武井昭夫との「対立」を取り上げてみるほうが、現在でもいろいろなことを考えさせられます。両者は対立するという関係をずっと意識的に取っていました。いわば方法的対立の関係ですね。時代状況から言っても、いちばん印象的なのは、戦後ポーランド映画の旗手とみなされたアンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(一九五八年)をめぐる論争でしょう。

といっても、両者の意見がちがっていると見えるのは、あくまで方法的なものであることが理解されねばなりません。あの当時、いろいろな論者が、各自自分の青春の体験を、ナルシシズムやルサンチマンによって、あの映画の中に同化させようとする言辞の氾濫があった。武井さんは一例として日野啓三を挙げ、批判しました(「ヤンガー・ジェネレーションの戦後意識」『芸術運動の未来像』所収、現代思潮杜刊)。

ポーランドの歴史的体験を現代芸術においてどのようにとらえてゆくかという場合、まずなによりも、現実のとらえ方における国際的な視点が、つまり全ヨーロッパ的な視野でポーランドの戦後の問題を見るという視点が、当時日本には全然と言ってよいほどなかった。ワイダの映画が、国際的な関係の中での階級対立の問題を反映しているということは花田も先刻承知していたはずで、そういう問題意識に立つことのない批評家たち、歴史的な体験を自分の青春のルサンチマンヘと個別的に結びつけ、そこからすべてを悲劇的に描き出そうとするような私小説的なものの見方に立った批評の行き方からは、国際的視野をそなえた現実的展望が見えてくるはずはないし、歴史の真実もまた発見することができない。花田も武井も、そういう日本の批評の動向に対し、本質的な批判を持っていた。だから、言葉のうえでは二人の間に激しい対立があると見えたとしても、それは言語学で言うところのフライティング(芸術形式としての罵り合い、罵倒術)の一形態であって、右の批評動向に伏在する私小説的なものに対する両者の対応の仕方のちがいと見るべきなのです。

まあ、それはとにかく、花田のワイダ批判の核心は、去年(九六年)の九月末ごろ、NHKテレビがワイダ特集を放映したとき、『灰とダイヤモンド』を撮った当時の政治的状況を回想しながら、ワイダが次のように言っていたことからも確証されるでしょう。つまり、主人公を、ソ連の方針にたてつくとこういう無残な死に方をするのだというように描いてみせたことによって、かろうじて当時の検閲を通すことができた、と言うのです。もちろん、自分(ワイダ)の真の意図は別のところにあった。指導部の誤りによって若いエネルギーが虚しく散っていく。そこにポーランドの現代史の悲劇を見る、という意図で自分は作り、観客はそれを正しく受け取ってくれた、と。

花田は、ワイダの意図なるものを直接には知ることなしに、ポーランド現代史の悲劇というようなワイダ流のとらえ方そのものを批判しました。ワイダは、敵と味方とをはっきり対立的にとらえて、その中から敵を味方にできなかったのは指導部の誤りであって、そこからあのような悲劇が生まれざるを得なかったと言うが、そもそも悲劇として物語をとらえること自体が、戦後の今日、時代錯誤でしかないのだ、と花田は言ったのです。その批判は、一人ワイダに対してのみならず、当時の日本の思想状況に対しても根本的なものでした。花田は戦後の新しい国際的な関係、なかでも冷戦体制というものを視野に置いていたのです。その視点が、ワイダや、ワイダを礼讃する人々の問題意識には、まるで欠けていたわけです。その視点を欠落させているがゆえに、ワイダの映画は、今日、喜劇たらざるを得ないのだ、と。

こういう花田のワイダ批判からすれば、『灰とダイヤモンド』が終わったところから始まると言っていいクルーゾーの『スパイ』という映画の方が、はるかに高い評価の対象となるのもうなずけるのです。クルーゾーが描いたのは当時の冷戦体制のもとでの二重スパイの物語ですが、敵側もこちら側も二重スパイなんですから、いったい誰が敵か味方か、しまいには分からなくなってしまう。そこに状況全体のファルス的な滑稽さがあるわけです。クルーゾーはそういうファルスを方法的に描いたのだ、と花田は言います。そして、冷戦が終結したばかりでなく、一方の対立の柱であったソ連が解体した今日においてさえ、依然として転形期のただなかにあるわれわれにとって、ファルス的世界状況の本質的性格に変化が生じたとはあながち言えないでしょう。むしろ、日本をめぐる諸外国との関係を見るだけでも、「敵のなかに味方がおり、味方のなかに敵のいることが戦国時代のつね」(第二章「狐草紙」七ニページ)といった具合で、昨今ますますドタバタ喜劇の様相が強まっているのではないでしょうか。

だから、そういう喜劇たらざるを得ないような現代の現実に対応し、現実を正確につかみとるためには、ますますもって近代のリアリズムの方向にはたいしたことが期待できそうにない。とくに日本のように、依然「短歌的抒情」だの私小説的リアリズムだのが幅をきかせているような湿った風土では、ポストモダニズムなどもたんに消費資本主義の手のひらでパフォーマンスにふけっているだけでしかありません。ゆえにいよいよ、ファルス的想像力というものをわれわれは身につける必要がある。という意味で、ここから大衆芸術であるミュージカルなどの方向に埋もれているアヴァンギャルド芸術の可能性を探究していかなくてはならないと考えた花田の、歴史的必然性につながる筋道も導き出されるのではないかと考えられます。動物説話の文学的可能性についてもまったくしかりでありましょう。

16 口承文芸の可能性

イソップ寓話以来、あるいはそれ以前から、動物を擬人化することによって、人間社会あるいは人間の現実を民衆的風刺の対象とするという文学形式は、世界中にありました。だが逆に、『鳥獣戯画』にならった『鳥獣戯話』のように、人間を動物になぞらえるという戯獣化の観点から民衆的説話文学を目指したものはそれほど多くはない。カフカの『変身』やガーネットの『狐になった夫人』なども、言葉の厳密な意味で民衆的説話とは言えない。したがって、花田がカフカやガーネットはもとより、従来の説話のスタイルをも、単純には踏襲するつもりがなかったことは明らかです。

花田が『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった日本の伝統的な説話文学に学ぼうとしているのは、その成立過程に注目するのであって、できあがった個々の作品の形式や内容ではありません。花田の方法意識にとらえられたのは、それら説話文学形成の今日的な観点からの言語的想像力のダイナミズムだったのです。

語り言葉による口承文芸と、書き言葉による文学との遭遇が、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった説話文学を生み出したのだ、と花田は言っている。口承文芸すなわちoral tradition、それから文字の文芸written traditionというか、英語のliteratureですね。このリテラチャーという言葉を日本語では「文学」と訳しています。柳田国男ふうに言うならば「筆の文学」と言うべきところですね。しかし、この語にはもとの意味をたどると「文献」という意味があり、明らかに文字による書き言葉と書き表わされたもの(文書・テクスト)を表わしている。

そうすると、オーラル・トラディションとは、これも柳田ふうに言うと、「言葉そのままで口から耳へ伝えていた芸術」ですから、つまり口承文芸でいいのですが、同じことを言うのにoral literatureという表記もまたしばしば学者のあいだで使われる。たとえば口承文芸研究の重鎮の一人と目されるルース・フィネガンがそうで、フィネガンによれば、本来の意味の口承文芸と筆の文学との遭遇はいつの時代にも見られたものである。両者はオーヴァーラップしているのであるから、截然と区別することなど今さら意味がない、という立場から、オーラル・トラディションとオーラル・リテラチャーとの用語を併用してはばからない(『口承詩論』ケンブリッジ大学出版局、一九七七年刊参照)。

しかし、私の話に必要があるのでこだわりますが、やはりこれは柳田もつとに指摘しているように矛盾した言い方であって、今日ではリテラチャーという言葉が文献という意味から離れたため、オーラル・リテラチャーという表現が普及しているとはいえ、本来リテラチャーとはオーラルなものではなくリトンつまり書かれたもの、テクストであります。そこをフィネガンは、事柄を結果において、また概念を現象において、いずれも静的に見ている。ところが、花田のように、あくまで両者を発生期において見る、あるいは転形期の具体相として動的に見る、という観点に立つならば、両者の関係は単純なオーヴァーラップであるとか共存融合であるなどと、そんなに簡単に言えないはずなのです。

説話作者たちは、声と文字との二つの文芸・文学のジャンルを対立物としてとらえ、対立させたままで新しいジャンルヘと統一しようと試みたのであって、それは前代未聞の冒険的試みだったにちがいない、というのが花田のとらえ方なのです。

したがって、出会い・遭遇というところを、より正確に、闘争と言った方がよい。つまり、声に中心を置く文化と文字に中心を置く文化との対決・対立・戦いですね。その観点は、活字文化から視聴覚的エレクトロニクス文化への急激な転換期もしくは両文化間の断絶期にあるわれわれ二十世紀後半の時代に生きる人間の、思想上・文学上・芸術上の緊急切実な課題の一つであって、従来の定型的戦国イメージの思考ないし心性に対立し、根底的批判となり得ると同時に、新しい感受性を創出し得るようなオーラリティを内在させた説話文学が創造されなくてはならない、そういう時期に現在さしかかっているのだ、というクリティカルな認識からきている。

前回の講座で粉川さんが引用されたところと重なりますが、次に引くのは花田の「柳田国男について」の一節です。

「おもうに、今日の課題は、いたずらにルネッサンス以来の活字文化の重要性を強調することにあるのではなく、柳田国男によってあきらかにされた活字文化以前の視聴覚文化と、以後の視聴覚文化とのあいだにみいだされる対応をとらえ、前者を手がかりにして後者を創造することによって、活字文化そのものをのりこえていくことにあるのではなかろうか。ということは、むろん、活字文化をかえりみないということを意味しない。それのもつ固定性、抽象性、純粋性、高踏性をもう一度、あたらしい視聴覚文化のなかで流動化し、具体化し、綜合化し、さらにまた、大衆化するということなのである。」(『近代の超克』所収、全集第八巻、三五〇ページ)。

花田にとって、活字文化の「固定性、抽象性、純粋性、高踏性」と近代リアリズムとは、分かちがたく結びついている。その結果として近代リアリズム文学は大衆的なものから遊離してしまっている。それを「流動化し、具体化し、綜合化し、さらにまた、大衆化する」ためには、前時代の視聴覚文化の中から現代の視聴覚文化との対応を見つけ出し、それを活字文化の中でとらえ直してゆく必要がある。つまり、活字文化を捨てるのではなく、その限界を乗り越えてゆく新しい「大衆化」の可能性を視聴覚文化の時代に向けて考えなければならない。花田が言う「大衆化」とは、通俗化ということではありません。通俗化ならざる大衆化とは、かつて言われたような、芸術大衆化を大衆の芸術化という観点からとらえ直すという問題とも呼応するんですね。その点で、たとえぱ、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』執筆に対しても大きな影響を与えたウォルター・オングという人がいますが、その比較的最近の表現論研究である『声の文化と文字の文化』(藤原書店刊)などもたいへん参考になります。その著書でオングはこう言っている。

「書くことは、知られる対象から知る主体を切りはなし、そうすることによって、『客観性』の条件をうちたてる。その客観性とは、知られる対象に個人的に関与せず、そこから距離をとるという意味である。[それに対し]ホメロスやその他の口承の語り手たちがもっているような『客観性』は、きまり文句的な表現によって強いられるところの客観性である。つまり、個人の反応は、たんに個人的な、あるいは『主観的な』反応として表現されるのではなく、むしろ、共有的な反応のなかにすっぽりくるまれたものとして表現される。つまり、共有的な『たましい』にくるまれたものとして表現されるのである。」(一〇一ページ)。

この二つの「客観性」を、ここでは自己と他者とに対する広義の批評意識と言い換えることができます。すなわち、花田の言う「大衆化」は、オングの言う「共有的な反応」に近い面を持っている。しかし、そのままでは、その反応は批評的なそれにはならないし、まして批評的相互性を持った集団の確立にはいたらない。決まり文句や套語的表現の持つ「客観性」は、そのままでは通俗的性格を免れないのです。無媒介に「共有的な反応」の中に包まれてしまうことによって、手垢がつき陳腐になっているためです。だから、いまだ口承文芸の伝統と筆の文学の伝統とが静的に対照されているにすぎないその状態に向かって働きかける必要がある。すなわち、「知る主体」としての「個人の反応」をぶつけること。それを介して「共有的」なものをとらえ直す。そのことによって、そこに二つの客観性を統合することが可能になる。それは大衆の新たな「たましい」の表現となり得る。それは、花田の言う意味の言説における「大衆化」でしょう。『鳥獣戯話』における大衆性は、その統合された「客観性」を目指していると考えることができます。それは批評を含む語りでなくてはならないがゆえに、文体として講談調を、形式としてファルスを、要求するのです。

17 ジャンル特性を越えて

「ジャンル特性」という言葉がありますね。小説なら小説らしい文体、批評なら批評らしい文体というものがあるんだという考え方です。中村明の『作家の文体』(ちくま学芸文庫)に、「小林秀雄が詩と批評とを融合させたとすれば、大岡昇平は小説を批評に近づけたと見ることができよう。」というふうに言われるのは、この「ジャンル特性」を踏まえているわけです(四四ニページ)。ところが、同じ本のインタヴユー編では、中村が、言語学者の小林英夫による大岡評にもとづいて大岡の散文は朗読しにくい文章だと言っている。それに応えて大岡自身が、「僕の文体は朗読に適していないはずです。」(二八四ページ)とはっきり認めている。つまり、大岡の文章は小説を批評に近づけて行った結果、声を出して朗読するには不向きな日本語となってしまったというわけです。

とすれば、その逆を行ったのが花田なんです。しかし、逆というのは、「ジャンル特性」からの移行や逸脱といった単純な相違のことではない。花田は「ジャンル特性」といったようなものを破壊しようとしたのです。花田最晩年の文章に属する「方法序説」において、花田は、「わたしには、そもそもの出発点から、評論らしい評論、小説らしい小説を書く気はなかった。」と言明しています(『箱の話』所収、全集第十五巻、八一ページ)。しかも、「方法序説」というエッセイは、埴谷雄高による『鳥獣戯話』批評に対する花田のしっぺ返しを含んでいる。

埴谷が、『鳥獣戯話』は「蛸の足」さながらの「くねくね論理のからみあい方」に「論理的エロティシズムの魅力」があるが、「或る事物の感覚的な集中的表現がなければ百の概念も一つの印象となって残らないという小説における最も初歩的な原則」から逸脱している、と批判した(『甕と蜉蝣』未来社刊、一六三ページ)のに対し、花田は猛然と反発しました。「(埴谷は)小説らしい小説が好きなのであろう。せいぜい、柄杓の上に羽を休めているやんまのイメージでも描くがいい。」という痛烈な一文が、「方法序説」の結語となっています。この「柄杓の上に羽を休めているやんま」とは、鴎外の『阿部一族』にある描写。花田はその句をとらえ、「鴎外の俗物性」の表われ以外のなにものでもないと一蹴し、「柄杓にやんまが止まっていたというのは、作者の出鱈目ではなかろうか。」とこきおろしているんです。

いわゆる「短歌的抒情」によって湿った日本近代の瑣末主義リアリズムの在り方への拒否が、右のような「事物の感覚的な集中的表現」に対する痛烈な反発と重なり合っている。花田はあくまで「もっと一般の大衆、人民というものがそのままそっくりすぐ飛び付ける、すぐわかるというもので、しかも芸術的に勝れたもの」を目指し、直接リーディング・パブリック(読者としての公衆)の心性に向かって語りかけるという方向に進んだと私は思うのです。花田の場合、それがファルスだったわけです。

18 朗読的文体と批評との統合

花田清輝が信虎に注目し、「もう一つの修羅」としてとらえようとしているからといって、なにも信虎と信玄とを比べて信虎の生き方を非暴力の思想から全面的に肯定したり、この生き方こそが正しいなどと言っているわけではない。むしろ、信虎にさえ距離を置きながら、信虎の中に見いだされる落武者的根性、あるいは追放された者のルサンチマンを鋭く見抜いて、それがミミズク一歩手前になるまで、生涯、信虎の行動に規制を与えたということを、ちゃんと断っています。

信虎は猿の群れの戦い方に学んで、個人戦や抜け駆けの功名を目指すという個人主義的なものの考え方に対抗し、集団戦を戦うための集団の論理を突き出したが、さらにそれよりももっと重要なことがあるんだぞ、それは、右の二者とも異なるようなかたちの「もう一つの修羅」というものが存在するということだ、と花田は言います。

このさらに「もう一つの修羅」を生きる人物の一人として、いわゆる口舌の徒である『醒睡笑』の作者・安楽庵策伝が登場させられる。口舌の徒の生き方が、武田父子の対立を含む戦国武将たちの生き方と鋭く対照されるのです。鶴見俊輔は「ある老い方」の中で、「花田は武田信虎を無理矢理に理想化しているわけではない。信虎のゆきすぎを非暴力の芸の力でおさえる、たいこもちの方法を信虎の暴力的方法の上においている。」(花田全集第十五巻、月報参照)と書いていますが、暴力に対する非暴力の対立という新たな図式がそこから姿を現わしてくる、というそのかぎりで首肯できる意見ではあります。

武田家の物語を語りながら、花田は、ルネッサンス精神とはなにかという問題を追求しているわけですが、この講座第一回目で湯地さんが報告の対象とされた『復興期の精神』もまた、ある意味ではルネッサンス精神を主題とする小説と言えないこともありません。鶴見俊輔はそういう観点に立っています。講談社学術文庫版巻末に再録されている鶴見の花田論に、『復興期の精神』は「伝記風の評論とも言えるが、むしろ思想史を素材とした小説というほうが、あたっている。」と書いてあるんです(『思想の科学一一九七一年一月号初出)。なるほど、『復興期の精神』の文体を見ても、批評の文体そのものがリズミカルであって、もともとが声に出して朗読するときに口調がいいような文章なのですね。『復興期の精神』全体がそうであるばかりでなく、その前の『自明の理』(一九四一年)というエッセイ集からして、すでにそういう文体がかたちづくられている。また、私の話の前の方で触れましたが、非暴力論の観点に即して言っても、『復興期の精神』のコペルニクス論にすでに非暴力のイメージははっきりと出ている。したがってその意味からすれば、花田の初期も後期も一つに連続しているわけです。しかし、それにもかかわらず、花田の力点はやはり異なるのではないか、と私は考えます。その差異はエレクトロニクスの急速な発達とはからずも対応しており、そこのところを非暴力の想像力の行使実践として見る必要があるんではないか、というのが私の主張なんです。

というのは、すでになんども言いましたが、第二次視聴覚文化としてのエレクトロニクス文化との対応の問題を考えざるを得ないからで、自分の言説はいったい誰に対ずるものなのかということを、花田は『鳥獣戯話』以降、いっそう明瞭に、言うなればトルストイ的に考えて書いている。それは発表の媒体がどういう雑誌かという問題とは別のことでして、花田が表現を向けている対象は、『復興期の精神』を書いた当時とはやはりちがうだろうということなんです。

『復興期の精神』を書いているときは、あのように書かなければ戦時下の権力にやられる、のみならずその権力に迎合している世間からの圧力も受ける。そういう二重の危険の中で書かざるを得なかった。だから、いきおいあのようなソフィスティケーションのスタイルになった。杉浦民平が月報(全集第二巻参照)に書いているように、「激しい戦争時代のきびしい社会的雰囲気にいささかも圧伏されることなく、いや、周囲の愚劣さに抵抗するために能力を抑制しつつフルに回転させるという複雑な危険を自覚しているせいか、文体もきびしく、ときどき刺笑をまじえることはあっても、つねに張りつめていて、たるむことがない。」と言っているとおりでしょう。

ところが、日常化した市民生活の表面に暴力が吹き出してきた一九六〇年以降の『鳥獣戯話』執筆時となると、活字文学を読むのに慣れた近代読者に向けてというよりも、むしろ逆に、そういうものを読むのをまどろこしがるエレクトロニクス時代の読者に向かって、どうやって語りかけるかを花田は考えたのではないでしょうか。ちなみに、カラーテレビの本放送が始まったのが六〇年九月であり、テレビ受信契約者数が一千万人を突破したのも、『鳥獣戯話』単行本刊行と同年の六二年三月のことでした。したがって、花田のアクチュアルな感覚は、活字文化によって深められたものを前時代の視聴覚文化である口承文化の手法によってとらえ直し、テレビ文化に傾斜してゆく民衆.大衆に向かって、ほとんど口頭で語りかけるような新たな文学のスタイルというものを提示した、と言うことができるんではないか。つまり、つい朗読したくなってしまうような文体と言ってもいいんですが。そういう朗読的文体に批評を結びつけて行った。それは、暴力と暴力的心性とに立ち向かう非暴力の想像力を口舌の徒として実践することであり、今日の文学の創造にとって、依然として大きな可能性の一つであり得る、と私は思うのです。

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