『社会評論』106号、発行=小川町企画、販売=土曜美術社出版販売、1997年3月
『復興期の精神』の思想とその背景
—連続講座「花田清輝—その芸術と思想」第一回
湯地朝雄
本稿は、小川町企画主催の連続講座「花田清輝︱その芸術と思想(全五回)」の第一回として一九九六年十一月二十九日に本郷文化フォーラムで行なった報告の内容を文章にまとめたものです。ただし、文章化にあたって、多少構成を変えたり、内容を補ったりしたことをお断わりしておきます。
l 転形期について
『復興期の精神』は、一九四六年十月に我観社から出版されました四六年十月といえば、敗戦後一年余、その年の一月に『近代文学』が、三月に『新日本文学』が創刊され、また四月には野間宏「暗い絵」が、六月には牧口安吾「白痴」が発表され、七月には中野重治が「批評の人間性」を書いて平野謙・荒正人との間に「政治と文学」論争が始まる—といった時期であり、戦後文学はようやくその緒についたばかりのころです。『復興期の精神』は、そうした戦後文学の草創期にいち早く刊行されたもので、そのこと自体が戦後文学の出発を告げるものであったといってよいでしょう。
しかし、その初版『復興期の精神』に収められた二十一編のエッセーは、本の最後に位置づけられた「変形譜 ゲーテ」を除けば、すべて太平洋戦争中の一九四一年から四三年にかけて書かれたものです。したがって『復興期の精神』は、今言ったように戦後文学の出発を告げるものであると同時にまた戦争中の思想弾圧・言論統制に抗して行なわれた抵抗の文学でもあるという性格を持っています。そしてその、戦争中の抵抗の文学であると同時に戦後文学の出発点に立つ文学であるという、この批評集の独自の性格は、戦争中の最後(四三年十月)に書かれた「楕円幻想 ヴイヨン」と戦後の第三Pである「変形澤 ゲーテ」(四六年一月『近代文学』創刊号に発表)との関係によく表れていると思います。
花田清輝は「楕円幻想」の終わりのところにこう書いています。
……いま、私は、立往生している。思うに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、こういう得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。
「楕円幻想」は、十五世紀の裾棒詩人フランソワ・ヴイヨンについて語りながら、村立する二つの点の一つを無視し、他の一つだけを中心に円を措こうとばかりせず、その二つの点を二つながら焦点として楕円を描くべきだという、花田清輝の基本思想の一つとなった考えを述べたエッセーですが、その楕円の焦点となるべき二つの点の間に「いま、私は、立往生している」と書いた花田清輝は、それ以後批評の筆をふっつりと断ってしまいます。四〇年から彼がそこにエッセーを書き続けてきた雑誌『文化組線』が、用紙統制のため廃刊させられてしまったのです。そしてそれから二年、暗く長い戦争の時代が終わり、最初に筆を執って書いたのが「変形譚」で、そこで花田は、カフカやガーネットやアポリネールの作品の、ある日突然甲虫や狐や壁に変身してしまう主人公たちについて、またゲーテの植物変形論について語りながら、ここでもまた「二つの焦点を基点として措かれた楕円」について述べています。「楕円幻想」のモチーフと「変形欝」のからでもまだ百五十年しかたっていない現代は、中世から近代への変革の過程であったルネッサンス期とおなじく、資本主義の近代を乗り超えて次の社会主義の時代(超近代)へ進もうとする転形期のまっただなかにあるのであって、そういう大きな展望に立って見るならば、社会主義体制の崩壊という、狭小な展望しかもたないものの予想だにしなかった事態も、近代を超える歴史過程における紆余曲折の一齣であり、転形期における生みの苦しみの一つとしてとらえられるのです。
花田清輝の生前最後の著書である『日本のルネッサン人』(七四年刊)の中に「古沼抄」という短いエッセーがありますが、花田は、その冒頭に、戦国時代末期の武将三好長慶が、連歌の会で、だれかが「すすきにまじる芦の一むら」とよんだあと一同がつけなやんでいるのを、「古沼の浅きかたより野となりて」とつけて賞賛を博した、という話を紹介して、こう書いています。
……中世の暮れ方から近世の夜明けまでを生きた三好長慶は、右の一句によって、かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した。かれ自身が、古沼の芦の一味だったか、野のすすさの一党だったかは、このさい、間題ではない。「古沼の浅きかたより野となりて」—おもうに、時代というものは、そんなふうに徐々に移り変って行くものではなかろうか。そして、転形期に生きた人々は、多かれ少なかれ、いずれも、「すすきにまじる芦一むら」といったようなあるいはまた、「芦間にまじるすすきの一むら」といったような違和感にたえずなやまされていたのではあるまいか。それかあらぬか、わたしには、「古池やかわずとびこむ水の音」という芭蕉の一句よりも、「古沼の浅きかたより野となりて」という長慶の一句のほうが、はるかにスケールが大きいような気がしてならないのだ。(中略)そこには、古沼ばかりでなく、古沼の原野に変るあたりまで—そして、そのへんに生いしげっている芦やすすきの群落まで、ちゃんと視野の中にはいっているのだ。近景から出発して、遠景にいたるまで、焦点深度のふかいレンズで、あざやかにとらえられているのである。
花田の晩年に書かれたものだけに、変革が遅々として進まないばかりか、逆行現象さえ起きかねない日本の現実に業を煮やし、時代というものは徐々に移り変わっていくものだ、とみずからに言い聞かせているような感がなきにしもあらずですし、また、古沼から芦原へ、そしてすすきの原へとつづく、焦点深度の深い展望の中にわが身をおいてみれば、さながら「芦間にまじるすすきの一むら」ではないかという、花田清輝自身の「違和感」がそこに語られているようにも思われます。しかし、それらの陰翳をともないながら、そこには、花田清輝のとらえていた転形期というもののイメージが、それこそあざやかに視覚化されていると私は思うのです。
しかしながら、いくら焦点深度の深い展望に立って転形期をとらえるといっても、変化は時々刻々に起きているのであって、ただ古沼から原野の向こうまでを見通していればよいというものでもありません。ロシア社会民主労働党(後のソ連邦共産党)は一八九八年の結党から二十年で世界最初の社会主義革命を成し遂げましたし、中国共産党は一九二一年の党創立から三十年足らずで中華人民共和国を樹立しました。変革の波は時に津波のように急激に起こって時代を一挙に前進させてしまうこともあるのです。花田清輝も、『復興期の清祥』初版の「抜」で、先に引用した言葉に続けて、「ここではルネッサンスについて語られてはいるが、私の眼は、つねに二十世紀の現実に、—そうして、今日の日本の現実にそそがれていた。」と書いています。
花田清輝が一九六〇年、安保闘争の直後に書いたエッセーに「現代史の時代区分」(『もう一つの修羅』〈六一年刊)所収)というのがあります。そこで花田は、宮本百合子の『道標』を取り上げ、それが作者の構想によれば、一九二七年から三〇年に至るソビエト滞在期を扱った「道標」に次いで、三一年から三三年までのプロレタリア文化運動期を描く「春のある冬」、三四年から四五年に至る戦争中の抵抗を措く「十二年」の三部作となる予定だったことについて、こう述べています。
……第一部において一九二七年から一九三〇年、第二部において一九三一年から一九三三年、第三部において一九三四年から一九四五年、といったような宮本百合子の区分の仕方には、案外、作者としてのかの女の限界のようなものが示されているのかもしれないのだ。つまり、一言にしていえば、わたしは、一九二七年の—すなわち、十年たったあとのロシア革命との対決からはじまっているその三部作を、一九四九年の中国革命によってではなく、一九四五年の日本の敗戦によっておわらせようとしたところに、すこぶる竜頭蛇尾的なものを感じないわけにはいかないのである。世界史の動向を決定したロシア革命や中国革命に比較すれば、そもそも日本の敗戦など、とるにたりない一些事にすぎないではないか。
もちろん花田清輝は『道標』という作品そのものを否定しているわけではなく、「作品全体がインターナショナルなセンスによってつらぬかれている」ことを評価したうえで、時代区分の仕方の間題が、「区分者自身の置かれている状況に深くかかわる主体的な間題」であることを論じているので、花田清輝の言いたいことは次のようなところにあると思われます。
一九二九年の大恐慌をさかいにして、前半の十年は、第一次大戦の亡霊によってなやまされ、後半の十年は、第二次大戦の幻影によっておびやかされ、過去と未来とのはさみうちにあって、一刻も危機意識と手をきることのできなかったのが、いわゆるロスト・ゼネレーションというやつであるが—しかし、もしもかれらが、歴史のながれを、前門の虎、後門の狼といったぐあいに、それらの二つの戦争によってきりとらずに、逆にそれらの二つの戦争に終止符をうった二つの革命によって—つまり、ロシア革命と中国革命によってきりとっていたならば、依然として危機意識にはつきまとわれていたにしても、かれらの「冬」の時代を、宮本百合子のいったように、「春のある冬」の時代として受けとることができたのではなかろうか。すくなくとも一九一九年から一九三九年にいたる「危機の二十年」のかわりに、一九一八年から一九四八年にいたる「危機の三十年」をとりあげた人びとが、前半の十五年を、ロシア革命の急速な発展によって勇気づけられ、後半の十五年を、中国革命の不断の胎動によって希望をあたえられ、過去と未来とによってささえられながら、確信をもっておのれの道をあるきつづけたであろうことに疑問の余地はないのだ。そして、さらにまた、わたしには、歴史のながれを、前のような時代区分の上に立ってふりかえるよりも、後のような時代区分の上に立ってふりかえったほうが、はるかにみのりゆたかな未来への展望をもたらすであろうという気がしてならないのである。
花田清輝において、焦点深度の深い展望に立った転形期のイメージは、また、右のようなインターナショナルな革命の視点によってしっかりと支えられているのであることを、ここで強調しておきたいと思います。
U レトリックと本音について
花田清輝は、初版「復興期の精袖」の「抜」の冒頭で、「戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで、率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一聯のエッセイを書いた。」云々と述べています。実際花田が自讃しているように、「たくみにレトリックを使」っていることがこの批評集のきわだった特徴でもあるので、爾来『復興期の精袖』といえばだれもがそのレトリックを論うということになっているようです。もちろん事は「戦争中」のことですから、レトリックを使うとは、敵を欺く苦肉の策を用いるということをも意味するのですが、しかし花田清輝は、それを単なる苦肉の策に終わらせず「しゃれた仕事」にしようとして意匠を凝らしたところがあるので、いっそうそのレトリックが目につくことにもなったのでしょう。
しかし、花田清輝はもともとレトリックというものを、「巧言令色」とか「美辞麗句」とかいわれる類の文辞の技巧とは考えていないので、それは、「復興期の精神」の巻頭におかれたエッセー「女の論理 ダンテ」にきわめて明晰に示されています。
「伯父ワーニャ」は女の考えを批評していう。あのなかには、修辞ばかりたくさんあって、論理はまるでない、と。しかし、それがもっとも女らしい女の思考であるなら、そこにまるで論理がないということはない筈であって、たしかに女の論理が、かの女の全思考をつらぬいて強くはたらいている筈である。したがって女の考えのなかには、たくさんの修辞と、たくさんの女の論理とがある筈であろう。この修辞とこの女の論理とは、はたしていかなる関係に置かれているであろうか。
そうして、アリストテレスに依拠しながら花田は次のように言っています。
修辞とは本来、単なる雄弁術、または言語文章の装飾術を意味するものではなく、性格にしたがって、それぞれ異なるところの性格的な思考の学を指すものであった。しからば、女の性格を担うところの女の論理は、本来の意味における修辞と実は同一のものであって、前者は後者の一種であると見傲すことができるであろう。
十分に論理的でないとか、抽象的なものがわからないとかいって、チェホフの戯曲の登場人物伯父ワーニャのような男たちからしばしば非難される「女の考え」の中に、むしろ「論理から支配されるのでなく、逆に論理を支配し、論理にむかって自己の刻印をうつ」女の論理を見て、それこそが修辞(レトリック)の本性なのだと花田清輝は言っているので、そのとき花田はその女の論理=レトリックに自身のレトリックを重ね合わせているのです。
それでは、その「女の論理」とは、どのようなレトリツクとして表れるのでしょうか。花田によれば、それはたとえば次のようなものです。
……かの女は、むき出しの真実を語るに適したごつごつした表現を好まず、巧みな仄めかしや思わせぶりや顧みて他をいうていの話術をさかんに使用するであろう。
『復興期の精神』のレトリックを論う人たちは、よくこの箇所に目をつけて、花田清輝もまた大いに仄めかしや顧みて他をいう式の話術を使って敵の眼を欺いたかのように評していますが、それは彼のレトリックの実際的な(あるいは結果としての)一面にすぎません。彼のレトリックはそのような防御的・消極的なものではなく、もつと積極的・能動的なものです。
花田は右の例のほかにも、女は餞舌だとか、「かの女のおしゃべりはほとんど無意味」だとか、どうしても自分のいうことを信じてもらえない場合は泣いたり叫んだりするとか、女の読者が読んだらかんかんになって怒りそうな「女のもつマイナス面」をいくつも並べていますが、しかしそのマイナス面も「見方をかえれば、そのまま、またプラス面ともなるのである。」と花田は言うのです。
修辞(レトリック)の目的は相手を説得することにあるので、「我々は修辞を用いることによって、我々の相手に信頼をおこさせようとする」、と花田は言います。つまり修辞とは、つねに相手との対話の上に成り立つものだ、というのが花田の基本的なレトリック観なので、仄めかしも思わせぶりも、顧みて他をいうのも、あるいは泣いたり叫んだりするのも、すべて相手の信頼を獲得し、相手を説得するための「話術」——すなわち女によって刻印をうたれた「女の論理」であり、それがレトリックというものなのだ、と花田清輝は言っているのです。
女のレトリックに対する男のロジックの優位を信じて疑わない思想に対し、それを逆転して、男のロジックに対する女のレトリックの優位を見る思想を対置する、というのが、「女の論理」を巻頭においた『復興期の精神』全体を貫く花田清輝の基本姿勢であり、それは言い扱えれば、支配者・抑圧者のロジックに対して、被支配者・被抑圧者のレトリックを対置するということにほかならず、『復興期の精神』全編に躍動するレトリックは、そのような基本姿勢から生み出され、創り出されたものであることを、われわれはまず銘記すべきでしょう。
花田清輝はさらに続けて、女の論理を具有するものに対して、一見マイナスとも見える「そのかずかずの性質のゆえに、私は……あなたを神聖なものと呼ぶであろう」として、次のように述べています。
……なぜというのに、イエス・キリストもまた、あなたと共通の性質をもっていたのだから。イエスはレトリックの達人であった。そうして、ロジックのみをあやつるパリサイの徒を、いかにあざやかに論破したことであろう。かれは学者のごとくならず召されたものの如く語った、と聖書はいう。かれの言葉は聴くものの肺腑をつき、たちまちのうちに相手の心にピスティスの念をおこさせる。かれは抑圧されたもののひとりとして、誰よりも大衆の気分や感情を知り、かれらを代表して、かれらのために語った。
そうして、「イエスも女もともに抑圧されたものに属する」として、次のように続けています。
……もしも修辞的であることが、女の欠点であるとするなら、それはかの女が、自己の桎梏を明瞭に認識することができず、むしろ修辞をもちいて、これを欺瞞しようとするからであった。もしも修辞的であることが、イエスの美点であるとするなら、それはイエスが、あくまで修辞をもって武器と見倣し、これをふるって、現実の変革のために果敢な闘争を試みたからであった。
こう書いた花田清輝が、自身もまた抑圧されたもののひとりとして、自己の桎梏を明瞭に認識し、現実の変革のために、そのレトリックを武器として果敢な闘争を試みようとしているものであることは明らかでしょう。イエス・キリストに仮託して、自らを奮いたたせるかのように闘争宣言を発している花田清輝をそこに見ることができるように私は思います。
〔附記〕菅本康之は、「フェミニスト花田清輝——「女の論理」をめぐって」(『社会評論』100号・95年10月)で、イエス・キリストと「女」に共通するものを見ている花田清輝について、それは≪「女の論理」にみる「女」と「イエス」=花田、すなわちフェミニズムの言説とマルクス主義(者)の言説の溶接》であり、両者をつなぐものこそがレトリックだ、と言っていますが、花田清輝のレトリックの意味を考える上で、これも注目すべき一つの観点でしょう。
「女の論理」は、花田清輝の、レトリックを武器とする闘争宣言であるといま言いましたが、本多秋五もまた、「以下の諸篇において自分の駆使するレトリックについて、著者が明瞭に自己認識を語ったもの」であり、「『復興期の精神』の総序たるにふさわしい戦略戦術の宣言」であると、『物語戦後文学史』の中で書いています。この場合、闘争の宣言といっても戦略戦術の宣言といっても、指している事柄は同じであるといってよいと思います。それは、より正確にいえば、自己の「戦略戦術」の階級的性質を明らかにすることによって、それが価値転働=現実変革のための闘いであることを示したもの、ということになるでしょう。
本多秋五はまた、右に続けて次のように書いています。
(「女の論理」に)つづいて著者は、男子一生の精力でないまでも、ある一時期の精力を呑みつくす精巧な玩具——文章もまた玩具である——が心の危機においてつくられ、抑圧された情熱のはけ口にあてられること(「鏡の中の言葉」)を語り、政治における権謀術数は、詩における韻律のごときものだが、韻律のために詩を問題にする男が詩人でないように、権謀術数のために政治を問題にする男が真の政治家でありえないこと(「政談」)を語り、眼前の「政治的自然」に翻弄されるのでなく、自然からの解放をのぞみ、実技の合理化などではなく、合理的実桟を志すなら、科学を科学として厳密に把握せねばならぬこと(「アンギアリの戦」)を語るという風に、毎篇ことごとく、精魂をかたむけて本音を吐いている。
『物語戦後文学史』の記述には、私などのあまり賛成できないところも少なくないのですが、しかし右に引用した箇所に関するかぎり、本多は『復興期の精神』をかなり熱心に、かつ正確に読んだことを示していると思います。そして、そのように一篇一篇読みすすんでいった結果として「毎篇ことごとく、精魂をかたむけて本音を吐いている。」という感想を述べているので、それは『復興期の精神』に込められた著者の真意をよく理解した言葉であり、それには私もまったく同感です。
普通、『復興期の精神』の解説というと、たとえば次のようなものが一般的です。
言論弾圧の厳しかった戦中、レトリック、反語、逆説、機知を縦横に駆使し、知識人や政治家の硬直した観念や心理をときほぐす柔軟な思考は、戦時抵抗の一結実として、また戦後革命を導く異色の労作として、広く注目を集めた。(『日本近代文学大事典』明治書院・94年刊)
『復興期の精神』の事典的解説としてはまずまずかもしれませんし、まちがってもいないでしょうが、しかしそこで特徴的なのは、言及されているのが「いかに表現したか」ということだけで「何を表現したか」には全く触れていないという点です。いわば、『復興期の精神』の<たくみにレトリックを使っている>側面にだけ着目し、その<転形期をいかに生きるか>というテーマにはほとんど目を向けないのです。しかし、本多秋五の言う「本音」とは、まさにその<転形期をいかに生きるか>というテーマにこそかかわっているのです。
本多秋五は右の引用に続けて、「と同時に、あらゆるレトリックの秘術をつくして煙幕をはりめぐらし、極力自己の正体を隠蔽している」と書き、花田清輝が苦心したのは「もはや私の正体などというものは存在しない、しかし、私の言葉は言々句々、私の本音ならぬはない、という境地」をわがものとして体得することにあったのだ、としています。アヴァンギャルド芸術家花田清輝も、本多のこういう筆にかかると、何やら悟りすました禅僧のような趣になってきますが、その「秘術をつくした」花田のレトリックが、ただの煙幕や韜晦ではなく本音を表現するための武器であることを、本多は本多なりの言い方で言っているのだととるべきでしょう。
では、花田清輝の「本音」はどのような表現として表れているか、一例として、「歌——ジョット・ゴッホ・ゴーガン」からゴッホについて語られた一節をあげてみましょう。引用文中における「かれら」とは、ゴッホがロンドンで語学教師をしていた時に接したダウンタウンの労働者、ベルギーの鉱山町で伝道師をしていた時に身近にいた坑夫、アルルで画業に熱中していた時に知り合った農民など、抑圧されている労働大衆を意味します。ゴッホは、「かれら」の味方、「かれら」のひとりとして、「すすんでみずからに困難と障害とを課し」、制作に沈みこんだ、と花田は語り、次のように筆を奔らせていきます。
底深く沈むにつれ、はじめてかれは、かれらのひとりとして感ずるであろう。すべてが暗く、そうして静かだが、いかにかれらのもつ底流のはげしいかを。馴れるにしたがって、かれはみるであろう。シュペルヴィエルの描いた「燐光人」のように、蛍に似た光を放ちながら、いかにかれらが、このどん底で不屈の意志をもって生きつづけているか。そうして、かれは知るであろう。この寂実のなかで、かすかではあるが、絶えず鳴りひびいている歌声のあるここのものすごい底流も、この仄かな光も、このあるかなきかの歌声も、すべては生の韻律によってつらぬかれているのだ。かれは、色彩の韻律的な展開によって、この生の韻律を捉え、これに明瞭な形をあたえなければならないのだ。
アルルを吹きまくる朔風を真向からうけながら、表現の苦労に痩せほそり、かれが、かれの肉体をすりへらしてゆけばゆくほど、反対にカンヴァスのなかでは、底流はいよいよ速く、光はめくるめくばかりになり、歌声はとどろきわたるのであった。平原が、丘陵が、樹々が、雲が、部落が、藁山が、色彩で燃えあがり、揺れ、わめき、身もだえをし、抑圧に抗して、いっせいに蜂起するもののように、堰をきって、画面いっぱいに、どっと氾濫しはじめるのだ。ゴッホはいう。「我々の探求するのは、タッチの落着きよりも、むしろ、思想の強度ではないか。即座に写生をして、どんどん仕事を片づけてゆかなければならないばあいには、タッチを落着け、よく秩序だててゆくことが、いつでも可能であろうか。それは、突撃の剣術よりも、より以上に可能性があろうとは思われない。」と。
体あたりの突撃以外に手はないのだ。しかし、忘れてはならないことに、この体あたりとは、直観だとか、本能だとか、内的な衝動だとか、——人間と同様、動物にもあたえられている、自然のままのこころの状悪に左右され、無我夢中でうごくことではない。この劇的な動作が、真にその恐るべき力を発揮するのは、これを支えている思想そのものの強度によるのだ。自
少し長い引用になりましたが、しかし私の伝えようとしていることを言い表わすためには、この場合最低これだけの引用が必要なのです。
ここで、花田清輝の本音を集約すれば、右のゴシック体の部分がそれにあたるでしょう。けれども、これだけでは抽象的で、その意味は、血の適わない観念、それも曖昧な観念としてしか理解できないでしょう。これらの言葉にこめられた筆者の血肉としての思想を受け取るには、どうしてもここにいたる筆者の生きた思考そのものをたどることが必要なのです。
ゴッホは感ずる、いかにかれらのもつ底流のはげしいかを。ゴッホはみる、いかにかれらが、このどん底で不屈の意志をもって生きつづけているかを。ゴッホは知る、この底流のなかで、かすかではあるが、絶えず鳴りひびいている歌声のあることを。そしてゴッホは描く、色彩の韻律的な展開によって、この生の韻律を捉え、これに明瞭な形をあたえるために。ゴッホは描きつづける。平原が、丘陵が、樹々が、雲が、……色彩で燃えあがり、採れ、わめき、……抑圧に抗して、いっせいに蜂起するもののように、堰をきって、画面いっぱいに、どっと氾濫しはじめる。そしてゴッホの言葉、「我々の探求するのは、タッチの落着きよりも、むしろ、思想の強度ではないか。」——「自己の思想の正しさを確信すればこそ、人間は、やぶれて悔いなき果敢な突撃を試みもするのだ」という最後の筆者の本音は、こうした言葉の奔流の創りだす「生の韻律」そのものの響にほかなりません。
筆者が生み出し、連ね、畳みこんでゆく言葉の渦巻く流れと速度に導かれて、ここに至ってはじめてその思考の全貌が姿を表してくる、というように筆者によって構想され展開されているので、つまりそれが『復興期の精神』のレトリックそのものなのです。言い換えれば、それは、韜晦や隠蔽のためよりもむしろ「本音」そのものを最も切実かつ有効に読者に伝えるために創りだされ、錬磨されたレトリックだということができます。
もう一つ、少し違った例をあげましょう。花田清輝が『復興期の精袖』初版の「抜」で「私の眼は、つねに二十世紀の現実に——そうして、今日の日本の現実にそそがれていた」と記していることは前にも触れましたが、これは、その「現実」に注がれていた眼の中に表れている本音ともいうべきもので、「終末観 ポー」の冒頭の一節です。
……すべてが終ったと思いこまなければ、なんにもできない人間がいる。自分の手で、おそらく屈強のバリケードになったかも知れない市街を焼きはらい、唯一の退路である橋梁を破壊し、炎々ともえあがる煩につつまれた寺院の円屋根や、泡だつ激流に斜めに突き刺さった鉄骨の残骸を眺め、はじめて敢然と立ちあがる人間がいる。普通だったら、追いつめられて、そうするのだ。ところが、この種の人間にとっては、これが闘争のための不可欠の手段であり、また必勝の戦術でもある。背後にはたよるべき何物もなく、踏んでいる大地だけが最後の拠点となって、ようやく冷静に、戦局の全体を見透すことができるようになる。この瞬間から、敵がおそろしく脆弱なものにみえてくる。いとも容易に打開の道がみいだされる。降服など、もってのほかのこととなり、ほとんど防御する意欲すら失ってしまう。そうして、ついに、かれらのすさまじい反撃の火蓋がきられるのだ。反撃に反撃をかさね、故に息を継ぐ暇さえあたえず、——起承転結の法則を嘲笑するかのように、逆にエピローグからプロローグにむかって、かれらはひた押しに押してゆく。
「終末観」は、ポーの「詩はすべての芸術作品が終わるべき終わりから始まる」という詩論や、ヴァレリーの「死の観念は法律の原動力、宗教の母、政治の秘かな、若しくは恐ろしく明らさまな動因、光栄と熱愛の梶本的刺激剤−無数の探求と瞑想の根源だ」という言葉などに依拠しつつ、「万事が終わったと思った瞬間、新しく万事が始まる」「死の観念は生産的であり組織的である」といった、結末から発端へ、死から生への逆転の思想を語っている短いエッセーですが、私などは、このエッセーを繰り返し読んでみても、その「結末から発端へ」「死から生へ」の哲学が、転形期の生き方とどうかかわってくるのか、もう一つピンときませんでした。その冒頭に述べられている右の一節を、私ははじめ、パリコンミューンかなにかの市術戦のことをでもいっているのか、と思っていました。ところが、『花田清輝全集』の年譜を見て、それが独ソ戦におけるス夕—リングラード攻防戦のことであることを知りました。そしてそのことを、一九六六年に講談社から出版された新版『復興期の精神』の「あとがき」に花田清輝自身が書いていることも知りました。彼はそこにこう書いています。
……発表の時期はハッキリしないが、冒頭の文章から察すると、前者(「蝋人形」に発表された「終末観」)は、ソ連のドイツにたいする反撃のはじまったころである。その雑誌の編集者だった大島博光が、検閲を気にして、「大丈夫だとはおもうけれども」といささか閉口していたのをおもいだす。
年譜によれば、「終末観」が発表されたのは「蝋人形」一九四二年十一月号であり、ソ連赤軍がスターリングラードでドイツ軍に対し反撃に転じたのは四二年十一月十九日ですから、このエッセーが執筆されたのは赤軍の反撃開始より前のようにも思われますが、もしそうであるなら花田清輝は、赤軍の反撃が始まることを予測していたのでしょうか。いずれにせよ、当時花田清輝が、ロシア戦線で戦われている、ソビエト社会主義共和国連邦の存立をかけた赤軍の死闘——その眼前の「二十世紀の現実」を注視しつつ、このエッセーを書いたことは事実でしょう。そして、そう思って読めば、エッセー冒頭の右の一節の意味するところはきわめて明瞭であり、また感動的でさえあります。今日の我々にはこれが独ソ戦のことを言っているのだとすぐにはわかりませんが、大島博光が一読して検閲を気にしたように、当時の心ある人々には、
筆者が何を訴えているかがストレートに伝わったに違いありません。
「……泡だつ激流に斜めに突き刺さつた鉄骨の残骸を眺め、はじめて敢然と立ちあがる人間がいる。——この種の人間にとっては、これが闘争のための不可欠の手段であり、また必
勝の戦術でもある。——この瞬間から、敵がおそろしく脆弱なものにみえてくる。いとも容易に打開の道がみいだされる。——そうして、ついに、かれらのすさまじい反撃の火蓋がきられるのだ。——逆にエピローグからプロローグにむかって、かれらはひた押しに押してゆく。」——これらの 「言々句々」は、もはやなんの曖昧さも難解さもなく「結末から発端へ」「死から生へ」というポーの「終末観」に直結します。そしてそのレトリックの内側から響いてくる花田清輝の本音の言葉は、ファッショ的天皇制の暴圧に抗して秘かな闘いを続けていた人々を励まし勇気づけるように働いたであろうことが想像されます。
右にあげた例はいずれも、十九世紀のゴッホやポーを語りながらいわば間接話法で二十世紀の現実を語っているものですが、『復興期の精神』の中には、目前の日本の現実を直接
話法で真っ向から批判しているところもあります。
a わが国の芸術家にいたっては、まったくお話にならない。ギルドの維持に汲々としてみたり、そこらの物のわからない役人にわたりをつけてみたり、まことに大人っぼく、分別くさい政治家揃いだ。(「政談——マキヤヴエリ」)
b……我国の政治家は、いまだに科学と形而上学とを混同しており、徹底的に科学的でもなく、十分に形而上学的でもなく、政治的自然に翻弄されながら、ただ厳然と右往左往しているにすぎないではないか。(「アンギアリの戦 レオナルドとマキャヴェリ」)
c 市中世紀におけるがごとく、現代においてもまた、職業は、屡々、阿片の代用をしているのではあるまいか。ひとつの職域に没頭しているといえば感心みたいだが、機械的に処理してゆける日常の仕事に多忙であることほど、はげしい時代のながれから眼をそらし、内心の不安を麻痺させておくのに便利な手はないのだ。況んや我々の所謂職域奉公は、人びとによって、それぞれの職域が他の職域との関連においてとらえられ、全体の見地から、個々の見地が、絶えず展望され、反省されているのでなければ無意味であろう。(「素朴と純粋 カルヴィン」)
ab については、特にコメントの必要はないでしょう。婉曲表現や顧みて他を言う式の表現ではなく、まさにそのものずばりです。ただし、b
は戦後の四六年に発表されたもので
す。C は、近代資本主義精神を、カルヴィン的な職分精神とマキャヴェリ的な営利精神との共存として考察したエッセーの一節ですが、「一つの職域に没頭する」という職分精神の麻薬作用を指摘しながら、その組織化としての「戦域奉公」(大東亜戦争中の愛国スローガンの一つ)を批判しています。「職域奉公」を直接非難するような言葉は使わずに、戦域奉公、結構である、しかし、それがその言葉どおりに実現されるためには、かくかくであらねばならないが、現実は少しもそうなっていないではないか——そういう論法で批判しているのですが、しかし実際の「職域奉公」とは、労働組合はすべて解散させて「大日本産業報国会」に組み込むという、ファッショ的な国家統制のためのスローガンですから、花田の言う「人びとによって、それぞれの職域が他の戦域との関連においてとらえられ、全体の見地から、個々の見地が、絶えず展望され、反省されている」といった、いわば社会主義的な労働組織とは根本から対立するものです。つまり花田は、「職域奉公」それ自体は否定せず、むしろ積極的に推進する観点で、しかしその推進のしかたを社会主義的観点から述べるという方法で、それを批判しているわけです。そして、このような方法は、あとで述べるように、花田清輝が右翼団体の機関誌に時事論文を書いた時にも用いた方法でした。
さて、このようにして語り進められている「復興期の精神』には、さまざまの注目すべき思想が展開されていますが、いまそのうちから二、三の問題を取り上げ、私なりにコメントしてみたいと思います。
一つは転向論です。花田清輝は「天体図 コペルニクス」で、「十六世妃の孤独な転向者」コペルニクスの転向について語っています。花田は、一九三〇年代後半から四〇年代前半にかけて共産主義からの大量の転向者を出した「我々の転向」が、「凄惨な闘争のはてにうまれた」ものであり、「悲劇的な色彩を帯びている」のに対して、コペルニクスの転向は、「あくまで朗然たる転向であり、しかもそれは、不思議なことに、闘争の拒否の上に立って、人目につかず行なわれた」と言っています。花田は、二十世紀日本における共産主義者の「転向」と、十六世紀ヨーロッパにおけるキリスト教徒の「転向」とを比較しているわけですが、しかしそれは、おなじ「転向」でも、だいぶ性質を異にしています。花田は、カントのいわゆるコペルニカッシュ・ウェンドゥング(コペルニクス的転回)のWendungを「転向」と言っているのであり、「転向といえば、つねに堂々たるコペルニクス的転向のことを指すべきであり、誰でもがする現在の転向は、断じて転向という言葉によって呼ばるべきではない」という考えを持っているので、その花田説でいけば、日本の共産主義者の「転向」が「悲劇的」であり、コペルニクスのそれが「朗然たる」ものであるのはいわば当然自明のことと思われます。日本共産主義者の転向が変節・背教であり敵への屈伏であるのに対して、コペルニクスのそれは、コペルニクス自身にとってはWendung(転回・転向)であっても変節ではなく、まして屈伏などしたことはなかったからです。
しかし、地動説を唱えて、地球が宇宙の中心であるとするキリスト教の教義に真っ向から対立することになるコペルニクスには、当然教会や社会からの非難・排撃・弾劾等が予想されるので、問題はそれにコペルニクスがどう対応したかということになりますが、それを花田は、「闘争の拒否の上に立って、人目につかず行なわれた」とするのです。
けれども、闘争を拒否したからといって、コペルニクスが闘争を放棄していたわけではない、と花田は言います。
……かれのおとなしさは、いわば筋金入りのおとなしさであり、そのおだやかな外貌は、水のように冷たい激情を、うちに潜めていたと思うのだ。そうして、闘争の仕方にはいろいろあり、四面楚歌のなかに立つばあい、敵の陣営内における村立と矛盾の激化をしずかに待ち、さまざまな敵をお互いに闘争させ、その間を利用し、悠々とみずからの力をたくわえることのほうが、——つまり、闘争しないことのほうが、時あって、最も効果的な闘争にまさるものであることを、はっきりとかれは知っていたと思うのだ。
深謀遠慮とはこのことで、一筋縄ではいかない相当に強靱な、主体性の持ち主でなければ、こういう人をくったしたたかな芸当はできないでしょう。コペルニクスは、一五三〇年ごろに自分の地動説を本にして知人に配ります。そして一五四三年に大著『天球の回転について』を出版してまもなく世を去りますが、その間に彼は、ブルーノのように火刑にもならず、ガリレイのように拷問もされず、「悠々自適、平穏無事な七十年の生涯をおくつた」と花田は書いています。コペルニクスは、ガリレイのように天動説信奉者とむきになって論争したりせず、また暦の改正など天文に関係した会議には欠席するというようにして、いつも冷静・慎重であったが、しかしそれは、闘争を回避したのではなく、闘争しないことこそ時には最良の闘争であることを彼は知っていたからだ、と花田は言うのです。
にもかかわらず、かれは文字どおり回天の事業をなしとげ、同時代人の夢想だにしなかった転向を実現した。闘争をしているともみえなかった人間が、実は最も大きな闘争をしていたのだ。
花田によれば、コペルニクスは自分の究めた天文学の蘊蓄を、自説を嘲笑したルター派の一人に三年がかりで伝授し、またその画期的な著書にはローマ法王への讃辞をささげ、かくして彼の学説は、ルターら進歩派の陣営にも法王ら保守派の陣営にも「白蟻のように噴い込んでいった」のです。
こういうコペルニクス像は、花田清輝にとって、いわば転形期に生きる人間の理想像であったにちがいありません。そもそも、そうした深謀遠慮による遠大な戦略戦術は、「転形期」というような、焦点深度のきわめて深いパースペクティヴによってはじめて成立するものでしょう。
はじめに私は「転向論」と言いましたが、こういうように見てくると、これは転向論というよりむしろ非暴力論といった方がよさそうです。そういえば花田清輝は、はじめから「転向の前後を通じ、闘争をもつて唯一無二の信条とする……我々の転向者」と、「闘争をしないこと」が時に闘争にまさるものであることを知っていたコペルニクスとを対比しているので、彼の転向論と非暴力論とはもともと表裏一体であり、ともに転形期の遠大な展望に立った変革のための戦略戦術という観点から考察されているのです。なお、つけ加えれば、「我々の転向者」に対する花田のこうした見方は、転向・非転向を(闘争という一点から)串刺しにして透視する視点を持っているという点で、転向も非転向もおなじ盾の裏表だとする吉本隆明の転向論と一脈通ずるものがあると私は思います。
次に、「群論 ガロア」に語られている組織論について。『群論』といえば、だれもがその末尾に記されている「すでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか」という言葉を引用して、それを筆者の内面表白としてあれこれ論評する、というのが一つのパターンになっていますが、しかしこの「群論」が、「あらゆる変革が組織を再組織することに帰着する以上、組織者はまず組織の法則を把握すべき」こと、そのために「組織の条件」について探求すべきことを説いたものであることには、ほとんど関心が向けられていないように見えます。
魂と肉体との尭離に煩悶する底の「世のヒューマニスト」たちは、「人間の組織のなにものであるか」を明らかにするためには「ほとんど取り上げる必要のない存在」であるとして、花田はこう言っています。
……組織が人間的な結合であるという通念にしたがうにしても、魂の重荷を背負ってよろめいているかれらは、所詮、組織とは関係がないのではなかろうか。何故というのに、かれらは人間という実体槻念を、あまりにも深く信じすぎているからである。組織がなりたつばあい、人間という概念は、すでに実体槻念から函数概念へと置き換えられているのではあるまいか。そのとき、もはや人間の魂と肉体とは切断されているのではないか。それならば、組織を人間的結合と呼ぶよりも非人間的結合と呼んだほうが適切であろう。
組織が、実体槻念としての人間の問題ではなく、函数槻念としての人間(人間と人間との関係)の問題である以上、どんな関係のもとに組織が成り立つのかという「組織の条件」が問題になります。そこで、「与えられた代数方程式を解くこと」から「代数的に解き得る方程式の有すべき条件」の探求へと問題を転換させたガロアの「群論」が登場するのです。より正確にいえば、群論を成立させたガロアの発想が、組織論と結びつけて取り上げられるのです。花田は書いています。
……人情にまみれ、繁文縟礼にしばられ、まさに再組織の必要なときにあたって、なおも古い組織にしがみついている無数のひとびとをみるとき、はたして新しい組織の理論を思わないものがあるであろうか。さらに又、再組織された後の壮大な形を措いてみせ、その不能性を証明されると、たちまち沈黙してしまうユトピストのむれをみるとき、問題の提起の仕方を逆にして、まず組織の条件の探求を考えないものがあるであろうか。
花田清輝が何を言いたいのかはこれだけでも明瞭でしょう。古い組織にしがみついている人々や壮大な夢を措いてみせるだけのユトビストたちの種は今も尽さません。そういう人々が、「すでに魂は関係それ自身になり……」という、組織の条件探求についての言葉を、人間の条件探求についての言葉であるかのように思い込んだり、また、組織と人間を対立させて、組織は非情冷酷だとか非人間的だとかいって、沈痛な顔をしてみせたりするのです。つまり、そういう人たちは、昔も今も「所詮、組織とは関係がない」のです。
最後に、「楕円幻想」における楕円とその二つの焦点の問題に一言触れておきます。
対立する二つの点のうちの一つだけを中心として円を描くのではなく、二点をそれぞれ焦点として楕円を描くべしと説いた花田清輝の弁証法は、近年また<楕円的思考>などといって一部にもてはやされているようです。けれども、そうした<楕円的思考>礼讃者は昔からいたので、彼らの言う<楕円的思考>とは、中心が一つではなく二つ(あるいはそれ以上)あると考える、複眼思考とか多中心主義とかいうものと同様のもので、いわば、マルクス主義者花田清輝の弁証法を、非マルクス主義的に、安易に通俗化したものにほかなりません。
〔附記〕『諸君』二月号の坪内祐三「元祖『楕円的思考』の人」(戦後論壇の巨人たち・第八回・花田清輝)が、善でなければ悪といった、二元論(一元論?)で割り切る短絡的考え方に納得がいかなくて悩んでいたときに、はじめて「楕円封想」を読んで、「我が意を得たりと、とても心強く思った」などと言っているのは、そうした通俗化の最も幼稚な見本の一つでしょう。
「楕円幻想」で、花田清輝は次のように書いています。
(「成程僕には昔から何だか中心が二つあって、始終其二点の間を彷徨しているような気がしたです」という、二葉亭四迷『其面影』の主人公の言葉を引いて)すなわち、これによってみても、我々の魂の分裂は、もはや我々の父の時代からのことであり、しかも私の歯痒くてたまらないことは、おそらく右の主人公が、初歩の幾何学すら知らないためであろうが、二つの焦点を、二つの中心としてとらえていることだ。かれの「狐疑逡巡」や「決着したところが ない」最大の原因は、まさしくここにある。何故にかれは、二点のあいだに、いたずらに視線をさまよわせ、煮えきらないままでいるのであろうか。円を描こうと思うからだ。むろん、一点を黙殺し、他の一点を中心として諷爽と円を 描くよりも、いくらか「良心的」ではあるであろうが、それにしても、もどかしいかぎりではないか。何故に、決然と、その各々の点にピンを突き刺さないのであろうか。何故にそれらのピンに、一個の木綿の糸の輪をかけないのであろうか。何故に鉛筆で、その糸の輪をつよく引きながら、ぐるりと回転させないのであろうか。つまるところ、何故に楕円を描かないのであろうか。
見られるように、『其面影』の主人公小野哲也は、中心が二つあることを承知しているのであり、しかもそのどちらかを無視して、一つだけを中心とすることができずに悩んでいるのです問題は、中心が一つしか見えていないことにあるのではなく、二つ見えていることそのことにあるので、小野哲也にとっては、複眼思考も多中心思考も、なんの役にもたたないことは明らかです。では、小野哲也はどうすべきか。「決然と、その各々の点にピンを突き刺」し、「それらのピンに、一個の木綿の糸の輪をかけ」、「鉛筆で、その糸の輪をつよく引きながら、ぐるりと回転させ」て、楕円を描くことだ、と花田清輝は言っているのです。肝心なのは「楕円を描く」ことにあるので、だからこそ筆者は、楕円の描き方を逐一具体的に記述して、そのことを強調しているので、これは単なるレトリカルな筆の滑りではないのです。二つの中心などということが問題なのではなく、二点を焦点として実際に楕円を描こうとするかしないか、という問題を花田清輝は提起しているのです。
V 抵抗について
花田清輝とともに戦後文学の出発を担った人たち、たとえば埴谷堆高・平野謙・本多秋五・佐々木基一・野間宏・荒正人といった人々は、いずれも一九三〇年代に共豪党指導下の左翼的文化・芸術運動、学生運動、労働・農民運動などになんらかのかかわりをもち、やがて弾圧によつて転向した経験の持ち主ですが、ほぼ同年配の花田清輝は、それらの左翼的運動のどれともかかわりをもったことがありません。上記の人たちがそれらの運動とのかかわりを通じてマルクス主義の洗礼を受けたのに対し、花田清輝は、それらの運動とはほとんど無関係のところで、独自に、独力でマルクス主義者になったようです。全集所載の年譜によれば、一九三六年に「改造社版『マルクス・エンゲルス全集』をはじめとして、多くのマルクス主義の文献を組織的に読みはじめた」とありますから、そのころを境に急速にマルクス主義者として自己を確立していったのでしょう。また三五年に結始した夫人は、労働者であり、仝協(共産党指導下の左翼労働組合)の活動家であったようですから、その夫人からの影響もあったかもしれません。三六年といえば、共産党はもとより、仝協・仝農等の労農運動の組織もすでに壊滅し、文化・芸術運動も、プロレタリア作家同盟をはじめ各組織が皆解散して、一時は意気盛んであった各分野の左翼運動も、いまや逼塞状態に陥っていました。左翼が壊滅し、皆が左翼運動から逃げ出したまさにその時期に、花田清輝は、マルクス主義者として独り歩みはじめたのです。
花田清輝が、中野正剛が主宰する右翼団体東方会の機関誌『東大陸』に関係するようになったのもちょうどそのころです。
本稿の末尾に付載した「花田清輝略年譜」でわかるように、花田は、三五年から三九年にかけて、『東大陸』に十数篇の論文を書いており、三九年から四〇年にかけての一年余りは、『東大陸』の編集責任者として活動しています。生活の資を得るために、同郷・同窓の先輩がそこにいたのを頼っていった、ということのようで、右翼団体に関心があったわけではないでしょう。花田が東方会員になったように言う人もいるようですが、彼が関係したのは、機関誌の『東大陸』で、東方会そのものではありません。この違いはなかなか重要なので、それは彼が『東大陸』に執筆した論文や、彼が編集責任者になったときの『東大陸』の編集後記などを読めば、そのことがわかるでしょう。一言にして言えば、彼は『東大陸』を舞台にして、あらゆる機会をとらえて現状のマルクス主義的分析に基づく帝国主義批判を精力的に行なっているので、これは、右翼団体の機関誌をも思想的闘いの武器として利用する、不屈の意志としたたかな知略との表れにほかならず、東方会に入ることとはまるで違う別のことなのです。
花田清輝が『東大陸』を舞台にしてどのように闘ったかを見てみましょう。
三五年に書いた「朝鮮民族の史的変遷」はかなり長い論文ですが、ごく圧縮していえば、朝鮮民族の発展のためには、「民族の発展、形成についての、厳密なる社会的歴史的認識」が必要であることを繰り返し説き、日本帝国主義の支配による資本主義化の過程で起こってきた朝鮮の民族運動を、そうした客観的認識を欠いた、資本主義の害悪への「道義的憤激」にとどまる、歪曲された民族主義として批判し、資本主義化の歴史的必然を認識した「真の民族運動」によって、土着資本を活用して大いに工業化をすすめるべきことを論じたものです。
当然のことながら、ここで花田清輝は、日本帝国主義による朝鮮の植民地支配そのものを否定したり攻撃したりはしていません。眼前の現実を現実として認めたうえで、その枠内で論じているのですが、私などが読んで驚くことは、その不自由な枠の中で、こんなことまで言えるのかと思うほど、いろいろなことを正面から率直に論じていることです。
たとえば、日本と朝鮮は太古においては同一民族であったと称して「日鮮融和」を説く親日派に対しては、「現実から遊離して容易な観念の世界に彷徨」している、「日本の民族主義—所謂『征服的』意味を持つ民族主義の擬装」だ、などと遠慮会釈なくこきおろしています。また、日本の朝鮮統治についても、「初期の自由資本主義には起こり勝ちなことであるが封建制に対する決定的勝利が、朝鮮人に対する徹底的反動、抑圧となって現れ、寺内総督の武断政治が試みられた。」「勿論その当時、内地人の封建朝鮮の破壊については、眼にあまる振舞も多かったであろう。」と、その非をあからさまに指摘しています。そうかと思うと、支配民族と被支配民族における民族性と階級性といった問題にも避けずに論及し、「現在の朝鮮においては、民族の階級的解放よりも、階級の民族的解放こそ望ましいものであり、かくてその生産力の発展を実現することが出来るのである。」と言っています。
しかし、なんといっても傑作なのは、「ブロック経済」「統制経済」によつて朝鮮の工業化をはかるべしとするこの論文の結論部分でしょう。「現在は独占資本主義、帝国主義から、統制資本主義、ブロック主義への推移期である」とまず花田は言います。そして、「ブロック経済下にある台湾、朝鮮、満洲に於ける産業の発展は、将にこれからという状態である」とし、「統制経済」について次のように言っています。
……統制資本主義は内包的に、先ずブロック内の富の開発による自給自足経済を企図する。かくて増進せる富を、その賃銀化、購買力化によつて、ブロック内の大衆一般に均霑しようとするのである。
……統制経済は独占資本の弊を矯め、生産を社会的な立場によって合理化し、大衆の購買力増大による必需品の生産につとめ、これに伴って、市場の拡張を計るものである。
これは要するに、統制経済・ブロック経済に名を借りた、社会主義経済そのものではありませんか。社会主義だのマルクス主義だのと一言も言わずに、なにくわぬ顔をして、社会主義の経済政策を内外に向かって説いているのです。
そうしてさらに、「統制経済が真にかくの如く遂行される時、これと共に民族主義の復興されるのは当然のことである」として次のように言うのです。
……欧米の民族主義は恰も「融和論者」のそれに似て、主として「征服」民族の民族主義であり、その支配階級の意識がそのまま民族意識として強制されている。しかし、それは統制経済が不完全なためであるから、致し方もない。これに反して、極東に於いては、各民族がそれぞれの民族的自覚に立つことによって、民族主義本来の面目を、誰憚らず発揮することが出来るのである。
右の文中「統制経済が不完全なためであるから」とあるところは、「統制経済」を「社会主義」と読み替えなければ意味が通じませんが、筆者もそのつもりで書いているのでしょう。また、欧米の民族主義を帝国主義として批判することは、アジア主義・大東亜主義に直接は抵触しませんし、協和といい共栄といっている以上、「民族主義本来の面目を誰憚らず発揮する」こと自体に文句をつけることはできないのです。敵の論理の泣き所を的確に押さえて、大東亜共栄圏などという美辞麗句の欺瞞性を暴くと同時に、「民族主義本来の面目」を明らかにする——花田清輝が二十六歳ではじめて『東大陸』(この時はまだ『我観』という誌名でしたが)にこの論文を書いたとき、そこまで明確に意識していたかどうかはともかく、こうした論文を書くことによって花田清輝が何を意図し、何をめざしていたかは、右の不十分な紹介からだけでも明らかでしょう。(年譜によれば、花田清輝は、一九三三年に、朝鮮独立運動の一員李東華の秘書をしていたことがあり、また三五年には李とともに清洲の朝鮮人居住区を尋ねたりしていますから、朝鮮問題についてはそれなりの蓄積があったのでしょう。)
花田は、この論文の終わりの方で、朝鮮の将来について述べる中で、「日鮮両民族は、やがて歴史的必然の結果として、必ずや同一条件の下に、あらゆる点に於いて立つ日も遠くはあるまい。」「朝鮮人は、内地人と同様に政治的、法律的にも、同一の権利を持ち、同一の義務を争うことてなろう。」と記しています。そして、これは決して空想的なことではなくてただちに実行し得ることだ、とも言っています。朝鮮人を日本人と同等に遇すべきことを、反語的に迫っているような言葉で、これもまた、日本帝国主義の朝鮮支配に対するかなりはっきりした指弾ということができるでしょう。
けれども、三八年に書いた「民族間逼の理想と現実—『内鮮一体化』問題を中心に」という論文などはもっとはっきりしています。そこでは、のっけから、「識者」によって「日満支一体化」が盛んに説かれているのは結構なことで賛成であるが、その反面「内鮮一体化」を忘れてはいないか、と「識者」に冷水を浴びせています。そして、いや、忘れているのではなくて彼らは朝鮮閏邁を避けているのだ、「何故というのに、ひとたび半島の問題に触れるならば、仝アジア民族の幸福を約束する彼等の規模雄大な大陸建設論が、若干空々しい響を放ちはじめるということを、賢明な彼等はよく知っているからである。」と、「彼等」——東洋連邦だとか東亜協同体だとかを宣伝している帝国主義イデオローグの欺瞞を痛烈に弾劾しています。そして、朝鮮併合から三十年たった今も「内鮮の一体化は決して実現されはいない」として、朝鮮農民の多くは耕作できる土地がなく、過剰人口となって餓死線上をさまよっており、そのうえ、活路を求めて清洲や内地へ移住しょうとしても、朝鮮人にはその移住の自由さえもない(旅行証明書がなければ朝鮮外への族行はできず、しかもその交付は厳しく制限されている)ことを指摘し、次のように言っています。
……これが所謂同種同文だとか、共存共栄だとか騒ぎながら、「識者」によって唱えられてきた内鮮一体化の現実である。理想と現実との乖離は当然のことであるかも知れぬ。しかし、かくも深刻な両者の分裂を眼前に見ながら、恬然として再びさらにいっそう壮大な理想をかかげ、さらにいっそう広汎な大陸建設へ乗り出そうと主張する人々の気が知れぬ。
日満支一体化などと大風呂敷を広げる前に、まず足元の内鮮一体化を実現せよ、と「識者」=東亜協同体論者を辛辣に皮肉っているのです。
ところが、これには「識者」から「東亜協同体の理想を嘲笑する君は国策に反対なのか」という反論があったらしく、花田はこれに対して「東亜協同体論と国家主義」(三九年)という論文を書いて再度それを批判していますが、彼等の論は、打算を超越し、国家的利害に拘泥しない「超国家主義」のように見えるが、それは自己の帝国主義の立場を隠蔽し欺瞞するためであって、「かれらは内心、事変が日本の帝国主義的侵略戦争であることを、かたく信じ、これを弁護するつもりで、日本が無欲恬淡みたいな主張をするのである。」と、当時本当にこんなことを書いたのかと思われるほど、まさしく歯に衣を着せずその虚偽を暴いています。批判は三木清らの協同体論にも及んでいて、「積極的に帝国主義に反対する」ところは、帝国主義であることを隠そうとする論者に比べれば「良心的」であるが、しかし国家の利益を顧みない超因家主義であることには変わりないとし、「帝国主義的でない大陸政策とはいかなるものであろうか」と皮肉って、「とうていその主張は実現の可能性はない」と断じています。ここで花田は、帝国主義に対して「新しい国家主義」を主張し、我々は「大胆に中外にむかって国家的利益を主張すべきだ」と、右翼的とも思われる論を展開しているのですが、よく読むと、「国家は資本と民衆との上に立って、漸次第三者としての姿を浮びあがらせつつある」「国家の干渉が、現段階において、はじめて民衆の利害を反映しながら、独占資本にむかって加えられようとしている」などと書いていて、どうも天皇制国家を逆用して社会主義的に運用することをでも考えているようなのですが、それはともかく、ここで花田が「国家主義」という言葉を社会主義的に用いていることは確かです。
このように、朝鮮・台湾への植民地支配や中国への侵略を正当化し美化する帝国主義イデオロギーに対して、右翼の機関誌を利用し逆用して、確固としたマルクス主義の思想に立
って批判するという、かなり知的労力を要する作業を、この時期の花田清輝は独り営々と続けているのですが、中には、日本内部の矛盾について論じたものもあります。「非情時局と中産階級の行方」(三七年)「支那事変と中産階級の苦悩』(三八年)などで、中産階級を取り上げているのは、『東大陸』の読者層を考慮したのかもしれません。いずれも、「支那事変」下の「准戦時経済体制」によってもたらされた種々の不都合——国債消化のための金融統制による金融難、軍需産業拡大・平和産業抑制策、貿易統制・配給統制による原料の不足・価格高、インフレ政策による物価高騰、物価高による消費の減退、徴兵による労働力の不足等々のため、中小工業者・中小商業者・中農、小農・下層官吏、サラリーマンなどの中産階級がその影響をもろに受けて苦境に陥っているありさまを、具体的なデータをあげて実証的に述べたもので、軍事国家への傾斜を急速に強めつつある政府の政策が、いかに日本の庶民生活の犠牲の上に成り立っているかを暴露していますが、その中産階級の階級分化、特にその大多数を占める下層分子のプロレタリア化を、まさにマルクス主義の理論によって分析しており、前者の論文では、「中産階級について書かれた『マニフエスト』の古典的な一節」として、『共産党宣言』の「新しい小ブルジョアジーが……ブルジョア社会の補足的構成要素として不断に再構成されている」云々という一節をそのまま引用さえしています。(前の朝鮮問題に関する二つの論文にもマルクスを引用しているところがあります。)大胆不敵というか、正々堂々というか、その論法、その執筆態度はいかにも腰の坐ったものだと感心するほかはありません。
花田清輝が『東大陸』の編集責任者として活動した期間の編集後記を読むと、彼が、論文の執筆だけでなく、その編集も、きわめて真面目に、かつ熱心に行なったらしいことがわかります。それは決して、生活のための片手間仕事などというものではなく、この雑誌を活用して広く大衆にアッピールしようという並々ならぬ意気込みさえ、そこには感じられます。
たとえば、花田は、担当最初の号(三九年六月号)で、「編集者と読者は一体にならなければなりません」と宣言し、毎週土曜の夜研究会を行なうからぜひ参加するようにとよびかけていますが、これはそのとおり実行されたようで、ますます盛会という記述もあります。また読者会の結成もよびかけ、三九年の暮には新潟まで出掛け、各地を回って読者と交流したりもしています。オルガナイザーとしての自覚をもって編集に当たっていたことがそこから窺われます。
またその編集方針にも非常に特色があります。しばしば特集を組んでいますが、そのテーマは、労働運動の新段階・諷刺詩集・技術と文化・宣伝とは何か・中国の経済地理・中小産業の前途・集団の構造など、国を挙げて皇国化・軍国化へと突っ走っている中での右翼ファシストの機関誌とはとても思えないような、花田色の鮮明なものばかりです。
自主的労働組合の活動を、産報会(産業報国会)運動がとって代わりました。これで果たしていいかどうか、それは今後の活動をみなければなりませんが、物動(物資動員)計画や物価政策の板ばさみになって、辛うじて生計をたてて居る労働者の状態は、一刻も閑却できません。医療と栄養、婦人、幼少年労働者の問題、賃金の問題等を検討した所以です。(カツコ内は湯地)
今月の特輯は技術の問題をとりあげた。いくら大きなことをいったところで、舌のそよぎだけでは駄目だ。実力の伴わない空威張りは、聞いている方で恥ずかしくなる。無為、無策、しかして壮語、これが今日の流行である。技術は、個人の、また社会の実力を如実に反映するものだ。はたしてわが国は、この難局を処理するに当たって、眼高手低の嘆を発することはないか。技術について、真面目に考えてみる必要がある所以だ。
右はそれぞれの特集号の編集後記の言葉ですが、花田の問題意識はきわめて明瞭で、時代の風潮に右顧左眄しない本質論で一貫しています。そしてそれが、もっとも基本的でかつ現実的な抵抗線になっていることを、ここにまざまざと見ることができます。
同じことが、個々の論文の傾向についてもいえるので、花田が編集者としてたえず強調しているのは、実証ということ、そして科学的ということです。三九年六月号の小島精一「対支通貨工作論」について「長期建設を、単なる大言壮語に終わらせないためには、人はかかる実証的な態度で仔細に現実を観察し、そこから結論を引出し、そうしてその結論に基づいて、果敢な実践に移って行かなければなりません。あまりに空漠たる議論が近ごろ多過ぎるようです。」と言い、同十月号の野口伝兵衝「満洲開拓地の移民制度」、印貞植「『大地』に放けるアジア社会」について「いずれもその科学的研究方法の厳密、真撃なる点において、我々を教ゆるところ大である。」と言っていることなどはその一例でしょう。
花田清輝が一九四〇年に書いた「童話考」というエッセーがあります。(一種のシュールリアリズム論で、はじめ花田の最初の評論集『自明の理』に収められ、後に『錯乱の許理』に収録されました。)その中で、童話と小説を対比して、童話の世界はかならず目的論的に構成されており、因果的には最後に実現されるものが最初の予想となり、全体を支配する原理となるが、これに対し小説は、それとは逆に因果の系列にしたがって展開されていくので、童話はいわば目的の王国に属するのに対し、小説は自然の王国に属する、というようなことを言っています。そして、今日の現実はあまりにも童話的である、なぜなら、「そこには目的はあるが手段はない。手段に対する検討はない。したがって目的を実現するための手段を選ぶことができない。……すでに観念的には目的の王国が実現されているのだが、現実的に決して目的は実現されはしない。」と書いています。目的の王国を観念的だけでなく現実に実現しようとするなら、そのための手段の検討が必要不可欠だ、というのが、いわば『東大陸』への論文勒筆およびその編集を通じての、花田清輝の現状批判の基本態度であったと思われます。大東亜共栄圏という「目的」は結構である、しかし、真に「共栄」を実現するつもりなら、今やっているようなやり方では駄目だ(手段がでたらめなのだから、目的が実現するはずはない)——そういう論法で花田清輝は、終始一貫、日本帝国主義の思想・政策を批判しつづけたのだと私は思います。そしてそれが、あの厳しい思想統制・言論弾圧の中で知的抵抗線を維持するための有効な戦術であったことを、上述のような花田清輝の仕事が証明していると思います。
一九四〇年十月、花田清輝は東大陸社を退社します。同月、首相近衝文麿を総裁に大政翼賛会が発足し、中野正剛の東方会も解散してそれに統合されることになり、「もはや、『東大陸』の編集などしていることはできなかった」(花田の言葉)からです。時代のファッショ化はますます進み、『東大陸』を逆用する可能性も望めなくなったのでしょう。以後花田清輝は、林業新聞、軍事工業新聞など業界紙の仕事をしながら、前年九月に中野秀人(中野正剛の弟)らと発足させた「文化再出発の会」と、同年一月に創刊したその機関誌『文化組織』を拠点にして、芸術運動に力を傾注することになります。
すでに『文化組織』創刊号から、後に評論集『自明の理』に収められた「赤ずきん」以下のエッセーを毎号のように書いていた花田は、『東大陸』の編集から解放された四一年からは、「女の論理」以下『復興期の精神』収録の諸篇を精力的に書き続けます。はじめ中野正剛の資金援助を受けて出発した「文化再出発の会」も四一年一月にはその援助を打ち切られ、東大陸社にあった会の事務所も中野秀人宅に移るなど、経済的にも困難は増していたのでしょうが、それでもその活動は、四三年十月、用紙統制令による雑誌の整理統合のため『文化組織』を終刊させられるまで、休みなく続けられたのです。同じころ、「文化再出発の会」も「言論出版等臨時取締法」によって解散させられました。
花田清輝が、「東大陸」をやめたあと『文化組織』に拠ってエッセーを書き続けたこの四一年、四三年の時期は、一口に言って、実に容易ならざる時期でした。天皇崇拝・大政翼賛・聖戦讃美以外の言論は、ほとんど発表不可能だったといっても過言ではないでしょう。たとえば、中野重治なども、この時期は、四〇年から引き続き「斉藤茂吉ノート」を『日本短歌』などに書いているほかは、これというものをほとんど発表していません。宮本百合子にいたっては、この間全く作品を発表していません。したくても出来なかったのです。四一年一月以来再度の執筆禁止となったうえ、十二月の太平洋戦争開始と同時に検挙され、翌年七月熱射病で人事不省になり担ぎ出されるまで巣鴨拘置所に拘置されていました。出所後も後遺症に悩まされ、また依然として執筆禁止は続くといったありさまで、宮本百合子が執筆を再開できたのは敗戦後の四五年末のことです。彼女は『宮本百合子全集』所載の自撰年譜四三年の項にこう書いています。
太平洋戦争第三年目で真珠湾の幻想は現実によってくずされはじめていた。日本の支配権力は戦争反対者に対する弾圧をますます激しくし、単に自由主義に立っている人々をも入嶽させた。文化、自由、平和、階級、侵略というような文字はすべての出版物から消された。一億一心、八紘一宇、聖戦、大東亜共栄圏というような狂信的用語が至るところに溢れた。文学はこれらの言葉の下に埋没した。
中野重治も太平洋戦争開始以後は、検挙はされなかったものの、取調べのため毎日警察に出頭させられるという状態で、とても執筆どころではなかったでしょう。
中野重治や宮本百合子のように、権力によって筆を奪われたのではなく、時世に愛想をつかしてみずから沈黙してしまった人もいます。たとえば林達夫です。
林達夫もまた、一九三〇年代にマルクス主義の洗礼を受けた知識人の一人です。林は、一九二九年には三木清などとともにプロレタリア科学研究所員であり、三二年、「唯物論研究会」の発足には、服部之総・羽仁五郎・三技博音・戸板潤らとともに発起人になり、創立大会で幹事に選出されています。また三三年には、長谷川如是閑会長・秋田雨雀副会長で「ソヴェートの友の会」が結成されるとその出版部長になり、グラフ雑誌『ソヴェートの友』を刊行したりしています。このころの林達夫は、高揚期にあったプロレタリア文化運動のかなり熱心な支持者として活動していたようです。
しかしその後、運動の退潮とともに次第にマルクス主義から離れていき、他方ジャーナリズムの上では気鋭の思想家・批評家として活発に活動しますが、日中戦争下の三八年ごろから時世に背を向けるようになり、四〇年には「絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかも知れない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。」(「歴史の暮方」)、「口を緘した思想活動というものも今の世には許されてよい一つの活動形態でもあろう。」(「新スコラ時代」)などと語るようになり、太平洋戦争の始まる四一年以降は、自らほとんど筆を断って沈黙してしまうのです。
しかし花田清輝は、林達夫が時代に背を向けて沈黙したまさにその時に、さらに意を励まして『復興期の精神』の仕事に取り組んだのでした。
私がいまことさらに花田清輝と林達夫とを対比して見ようとするのは、林が「戦時中の数少ない独特の抵抗者の一人」(渡辺一民、後の附記参照)とされている知識人であり、また両者が、互いにその戦時中の抵抗に共通するものがあることを認め合っているからです。『花田清輝全集』の年譜によれば、林達夫は『復興期の精神』を読んで、「戦後に現われたものの中、最もすぐれたもの」と称讃した葉書を我観社あてに送ってきたそうですし、また花田清輝は、『復興期の精神』の出る前月に出版された林達夫の評論集『歴史の暮方』の中の「反語的精神」を読み、「戦争下の自分の仕事がみごとに論理化されているのを感じて感銘をうけ」たそうです。
確かに、「反語的精神」の中には、「私はわが国の思想家や知識人があの困難な反動期において少しも思想闘争上の戦略戦術について真剣に考慮をめぐらし工夫を致すことのないのが、実に不思議でならなかった。……思想闘争は猪突や直進の一本調子の攻撃に終始するものではない。また終始してはならない。そんなことでは、それは警官の前で、戦争絶対反対!と叫んでその場で検束されてしまう、あのふざけ者のタダイストと、結果的には一向変りがなく、道行く群衆はただ冷然とそれを見送るだけのことだ。」といった言葉があり、それは花田清輝が『復興期の精神』の中で語っている、あのコペルニクスの「闘争しないことが時には最良の闘争だ」という思想とまぎれもなく呼応していますが、しかし私は、花田清輝の「思想闘争」と林達夫の「抵抗」との間にはやはり根本的な違いがあると思うのです。
太平洋戦争下で沈黙した林達夫は、しかし永井荷風のように、まったく隠遁してしまったわけではありません。四一年三月、林は、参謀本部の対外宣伝雑誌を刊行するために設立された「軍御用の写真出版印刷会社」(中島健蔵の言葉)である東方社の理事に就任します。理事には林のほか岡正雄・小幡操(後に中島健蔵も)らの学者・ジャーナリストが、技術陣には、木村伊兵衡・原弘・渡辺勉らが参加して、グラフ雑誌『フロント』の制作に当たったのです。『フロント』はA3判三二ページ、印刷は、表紙はオフセット、本文写真はグラビア、用紙はすべて特注という、それまでの日本にはなかった豪華グラビア雑誌であり、もっぱら海外向けで、初期は十六か国語版がつくられたそうです。内容は、陸軍・海軍・空軍・満洲国建設等の特集で、ほとんどが写真で構成されており、原弘の新機動のレイアウト、日本最初のカラー写真、エアプラッシュによる写真修整など当時の最新技術を駆使して制作されたといいいます。
中島健蔵は、林達夫に勧められて東方社に入った理由として、参謀本部の笠の下で憲兵や警察の干渉から免れられることとともに、そこには隠れて息づいている「芸術」があったことをあげているようですが、しかし、ほとんどが海外に送られて国内には残っていないため「幻のグラフ雑誌」といわれる『フロント』の実物を苦心して入手した渡辺一民の伝えるところによれば、その中身は、日本の侵略戦争とその軍隊を謳歌し、「八紘一宇」の帝国主義イデオロギーを鼓吹する文字どおりの軍部の宣伝雑誌であることは明らかです。それが技術的にいかにすぐれたものであり、製作者たちの「芸術」心を満足させるものであったとしても、それはナチスの宣伝映画を作ったリーフェンシュタールと同じことで、侵略戦争加担の責任を免罪するものではありえないでしょう。
林達夫はその東方社の設立時からの理事であり、しかも四三年三月以降は理事長として『フロント』制作の最高責任者であったので、そのような事実と「独特の抵抗者」とはとうてい両立し得ないと私は思います。林は「反語的精神」の中で、「反語的順応主義(コンフォルミスム・イロニック)」ということを言い、ソクラテスを引き合いに出して「俗衆の先頭に立って何喰わぬ顔で音頭さえとっている——しかしそうしながら、実は、あらゆる通念、正統、権威を瓦解させ、嘲弄していたのです。」と言い、また、「戦争の中に押しやられて、しかも戦争を克服する方法は、戦争に対して単純に「否」を叫ぶことではなく、その戦争の頭脳を、軍国主義の神経中枢をじつと冷静に見つめることであった。」と言っていますが、しかし彼が最高責任者として制作した戦争謳歌の宣伝誌『フロント』で、どのように権威を嘲弄し、どのようなイロニー効果を発揮したというのでしょうか。参謀本部という「軍国主義の中枢」に接近し、何千万の「俗衆」が戦争の犠牲になっていくのをただ「じっと冷静に見つめ」ていたとでもいうのでしょうか。「コンフォルミスムそのものが実は苦肉の戦略だった」とも林は言っていますが、私には、彼の「反語的精神」全体が、『フロント』参画は「実は苦肉の戦略だった」とする弁明の文章であるように思えてならないのです。
このような林達夫の「抵抗」と、『東大陸』や『文化組線』を舞台にしての花田清輝の「思想闘争」とが、決して同日に談ずることのできないものであることはもはや明らかでしょう。林達夫がマルクス主義から転向していった時に、花田清輝はマルクス主義者としての自己を確立していったのであり、そして林が戦争から韜晦しながら結局は軍部の禄を食んで侵略戦争加担へと流されていった時に、花田は徒手空拳で『文化組織』の運動を持続し、『復興期の精神』によって未来に向かっての思想闘争を闘いつづけたのです。
〔附記〕林達夫に関すること、特に東方社や『フロント』に関することは、渡辺一民『林達夫とその時代』(岩波書店、八八年刊)に拠りました。