花用溝輝年譜T(一九三三年〜五二年)
一九三三年(昭和八年)二四歳
福岡より上京。中学上級生の実姉の嫁ぎ先、三浦義一宅に一時、寄宿。
翻訳などのアルバイトで暮らす。
新開広告で応募、李東華(朝鮮独立の運動家)の秘書となり、自伝口述筆記。
朝鮮問題を研究。
一九三四年(昭和九年)二五歳
李東華自伝完成。
政友会代議士の選挙応援、論文代筆などのアルバイトで生計。
一九三五年(昭和十年)二六歳
「満州」の朝鮮人居住区に行く(李東華とともに)。
『我観』(翌年『東大陸』と改称)に「朝鮮民族の史的変遷」を執筆。
松島トキと結婚。
一九三六年(昭和十一年)二七歳
●マルクス主義文献を系統的に読む。
『東大陸』に「銀価の動きと支那の諸階級」を執筆。
一九三七年(昭和十二年)二八歳
『東大陸』に継続的に執筆(「非常時局と中産階級」など三編)。
「錯乱の論理」の初稿にあたる、「心理と論理」を『世代』に発表。
一九三八年(昭和十三年)二九歳
●瀧口修造「近代芸術』を愛読。シユルレアリスムの文献を読む。
『東大陸』に毎号、論文執筆(「支那事変と中産階級の苦悩」など)。
「サンチョ・パンザ論」「旗」執筆。
一九三九年(昭和十四年)三〇歳
『東大陸』に執筆(「リンク制御論」など三編)。
「東大陸社」に入社(五月)、『東大陸』編集(四〇年十月まで勤務)。
「キュリー夫人伝』など執筆。
「文化再出発の会」をつくる(中野秀人、福地立夫らと)。岡本潤を知る。
一九四〇年(昭和十五年)三十一歳
「文化再出発の会」機関誌『文化組識』発刊(一月)。
関根弘を知る。
同誌に毎号、のちに「自明の理」(戦後の『錯乱の論理』に収録)にまとめられる一連の論文を執筆。
「東大陸社」退社(十月)。秋山清の紹介で「林業新聞社」勤務。田中吉六を知る。一九四一年(昭和十六年)三二歳
『文化組織』四月号から、のち『復興期の精神』収録の連作エッセイを執筆。小野十三郎が同誌に『詩論』を連載。
一九四二年(昭和十七年)三三歳
『文化組織』に『復興期の精神』収録の連作エッセイを引き続き書き継ぐ。
林業新聞社を退社、サラリーマン社(のちの自由国民社)に就職。
●徳永直「日本の活字」(のち『光をかヽぐる人々』収録)に感銘。
●今村太平『漫画映画論』を読み注目。
●ロシア・アバンギャルド芸術について研究。ソ連文学を集中的に読む。
一九四三年(昭和十八年)三四歳
のちの『復興期の精神』所収論文を書き継ぐ。
文芸時評「虚実いりみだれて」(『現代文学』)で三浦義一批判。影山正治主宰「大東塾」同人らに暴行を受く。
用紙統制のため『文化組織』終刊(十月)。「文化再出発の会」解散。
一九四四年(昭和十九年)三五歳
「小林秀雄」(のち「太刀先の見切り」と改題)を『現代文学』に発表。
関根弘の世話で「軍事工業新聞」社(のちの「日刊工業新聞」社)に入社。京浜工業地帯を歩く。
一九四五年(昭和二十年)三六歳
七月「軍事工業新聞社」退社。
十月綜合芸術協会設立の構想(花田・中野秀人・岡本潤)。予定メンバー(豊島与志雄、掘口大学、中野垂治、金子光晴、三好十郎、片山敏彦、久保栄、千田是也、内田巌、中野秀人、小野十三郎、花田清輝、岡本潤)。
十月中野達彦・泰雄兄弟より『我観』の運営の相談を受ける。
十一月『近代文学』創刊号に依頼により「変形譚」を書く。
一九四六年(昭和二十一年)三七歳
二月『眞善美』(『我観』改題)発刊。同誌に「アンギアリの戦」執筆。三月号より編集に参加。
十月『復興期の精神』発行。
十月新日本文学会入会。
●石母田正『中世的世界の形成』に驚く。
●野間宏『暗い絵』に感心。
一九四七年(昭和二十二年)三八歳
綜合文化協会設立。『綜合文化』(「眞善美」改題)発刊)
『近代文学』第一次同人拡大で同人となる。
『錯乱の論理』刊行。岡本太郎と知り合う。
一九四八年(昭和二十三年)三九歳
「夜の会」結成(花田、野間、堆名、埴谷、梅崎、小野十三郎、中野秀人。岡本太郎、佐々木基一、関根弘、安部公房が参加、例会など花田・岡本を軸に推進)。
「新日本文学会」評論部門の討論責任者の一人に選出さる。同会中央委員。編集委員。
一九四九年(昭和二十四年)四〇歳
『綜合文化』廃刊。
『二つの世界』刊行(月曜書房)。
月曜書房に協力『戦後主要作品全集』編集・刊行。
日本共産党入党(共産党文化部青山敏夫のすすめ)。
一九五〇年(昭和二十五年)四一歳
「夜の会」解散。
岡本太郎・花田清輝により「アヴァンギャルド芸術研究会」発足。
『映画文化』(今村太平ら)執筆同人となる。
一九五一年(昭和二十六年)四二歳
ケストラー『真昼の暗黒』をめぐり埴谷雄高ら『近代文学』同人と意見対立。山室静らと論争へ。
一九五二年(昭和二十七年)四三歳
「新日本文学会」第六回大会。外国文学報告。中央委員。翌日の第一回中央委員会で中央常任委員。第一回中央常任委員会で編集委員会責任者に選出さる。花田編集長時代始まる。
一九五二年(昭和二十七年) 四三歳
「新日本文学会」第六回大会で『外国文学紹介の現状』について報告。
『新日本文学』花田編集長(四月。七月号より)。
九月、大西巨人「新日本文学会」中央常任委員会書記局常任となる。
十月、武井昭夫「新日本文学」編集部員となる。他に、檜山久雄ら。
△『美術批評』創刊
△『列島』創刊
△「現在の会」結成(安部公戻ら)
新編集方針(執筆者拡大、増ページ、増部数、etc)
一九五三年(昭和二十八年)四四歳
「新日本文学会」再編・再組織方針決定(七月)。
花田編集長再任、新編集委員に、大西巨人、秋山清、寺田透、大井正、西野辰吉、佐多稲子、佐々木基一、菊池章一、平野謙。計一〇名。
「世代」などの新人批評家を執筆者ヘ——浜田新一(日高晋)、大野正男、清岡卓行、村松剛、奥野健男、吉本隆明、日野啓三、etc
座談会によるひろがり、大井広介、田辺茂一、梅崎春生、大岡昇平、etc
一九五四年(昭和二十九年)四五歳
武井昭夫「文芸時評」担当。(一月号、七月号)。
宮本顕治、新方針を批判。大西・宮本論争。
七月、花田編集長、罷免。
十月、『アヴァンギャルド芸術』(未来社刊)。
『新日本文学』十、十一、十二月号に「文芸時評」。
(『シラミつぶしに』『別れの曲』)
△『人民文学』→『文学の友』へ。
△『現代評論』創刊(奥野健男、日野啓三、服部達、清岡卓行、村松剛、島尾敏捷、遠藤周作、吉本隆明、檜山久雄、武井昭夫ら二十数名。代表=奥野、事務局=日野、武井)。
一九五五年(昭和三十年)四六歳
一月、花田『アヴアンギャルド芸術』、岡本太郎『今日の芸術』合同出版記念会
一月、新日本文学会第七回大会
現代芸術研究所(岡本太郎)に協力。武井も参加
○高見順とのいわゆる”「ゴロツキ」論争”始まる。
「日本抵抗文学選」(杉浦明平・佐々木基一と共編)。
☆吉本隆明「前世代の詩人たち」(『詩学』)
☆日本共産党(一・一論文、六全協決議)
○『近代文学』百号記念特大号座談会「今後十年を語る」で、本多、荒、山室らと対立“「モラリスト論争」” の始まりとなる。
一九五六年(昭和三十一年)四七歳
『群像』三月号に「モラリスト批判」。“「モラリスト」論争”起こる。
☆武井昭夫「戦後の戦争責任と民主主義文学」(『現代詩』)
☆武井昭夫「政治のアヴアンギャルドと芸術のアヴァンギャルド」(『美術批評』)武井・針生論争始まる。
『現代詩』八月号で花田・岡本潤・吉本隆明の鼎談
「芸術運動の今日的課題」。花田・吉本論争の発端となる。
『さちゅりこん』(未来社刊)。
現代芸術研究会(仮称、のちの「記録芸術の会」)始まる。(花田、安部公房、佐々木基一、玉井五一、野間宏、長谷川四郎、武井)。
☆吉本・武井共著『文学者の戦争責任』(淡路書房)
△「現代批評の会」準備会(奥野・吉本・井上光晴・清岡卓行・武井。発足時には島尾敏捷、佐古純一郎、橋川文三、瀬木慎一らが参加)