『社会評論』110号、発行=小川町企画、販売=土曜美術社出版販売、1997年12月

連鏡講座「花田清輝——その芸術と思想」第五回

芸術運動家としての花田清輝

——対立物を対立したまま統一する花田弁証法の実践

武井昭夫

 はじめに——戦中の抵抗から戦後の開花へ

 花田さんの仕事は、その目指していたのが綜合的芸術論でしたから分野も多岐にわたっていて、かつ、勤勉な方でしたから厖大な量があり、今回、その全体をフォローしてお話する時間的な余裕もありません。また準備も不十分ですし、今までやってきた四回の講座とそこでの討論を踏まえて、いわばそのおさらいといくつかの補足といった程度の話になるかと思いますが、お許しください。

 いま、花田さんの仕事を考えるとき、戦争中の花田さんの文学と思想の形成の問題、それが戦後に開花して、戦後の文学芸術運動を牽引し領導していくわけですが、そのプロセスと意義をふりかえってみる、というところを中心にしたい、と考えています。ここを考えることが、花田さんの仕事を捉える肝心のところ、とわたしは思いますし、花田さんの正当な評価のためにも必要不可欠のところだ、と思うからです。

 きょうの話はできれば花田吉本論争のところまではいきたいとも思うのですが、時間的に無理かもしれない。それよりは、ここのところをしつかり押さえておけば、吉本さんの花田批判——というより攻撃——がどんなにでたらめなものだったか、おのずから解決済みとなる事柄を考察したい。

 もともとあの論争そのものから、直接的に文学論なり、芸術論なり、あるいは政治論なりについて、積極的に益するものはまず無い、とわたしは思います。あの「論争」は吉本さんが当時の時代のエモーショナルな反共的思潮に乗っかって自分の正当性をやみくもに暴力的に主張した、というだけのことでした。時代も変わってきたし、吉本氏自身が自分のカリスマ性を消してしまったいま、もうそれにとらわれることなく、花田さんの仕事、および花田さんが行なおうとしてきた戦中から戦後にかけての運動がどんなものを目指していて、われわれが現在の問題を考え今後運動的な観点から仕事をしていく上でどんな光を与えてくれているか、ということを解明してみたい。それがつまるところ、吉本氏の花田攻撃——こともあろうに転向ファシスト〃よばわりさえした——がどんなに事実とかけはなれた暴論だったかを証明するでしょう。

 今日おてもとに配りました三枚の年表があります。これを最初に説明しておきます。前の二枚は花田さんの仕事についての年表的な整理です(年譜1)。三枚目の一九五二(昭和二十七)年からの分(年譜2)は、わたしが花田さんにお会いしたころからの運動を通しての関係もあわせて示そうとしたものです。この年表のもとになっているのは、花田清輝全集の編集実務を担当した久保覚さんが、全集が準備されはじめてから刊行が終わるまでの間、毎日のように発行元の講談社に詰めて、つくり上げた年表で——それは全集の別巻Uに収められている——主としてそこからの抜粋ですが、さらに『社会評論』106号に、第一回めの講座の内容に大幅に補筆して充実させた論文を湯地朝推さんが書いていて、その後尾に湯地さんが作成された年表が載っていて、それも参照して作成しました。

 一口に言って、戦争中の花田さんの抵抗運動が、戦後を迎えて新しい総合的な文化運動として展開されていさますが——その間には確かに敗戦による大戦の終結という一つの大きな区切りがありますが——しかし花田さんの運動家としての仕事という点では完全に連続している。おそらく、これほど見事に戦中の抵抗から戦後の開花へと連続していったものは稀有だと言えるでしょう。獄中でがんばった人もいますが、それも運動としては中断させられている。たとえ非転向でがんばったとしても、運動の敗北というものの上に立って、その再検討から出発しなければならないという問題がある。転向した人はどんな戦中の過ごし方をし、戦後どう再出発していかなければならないか、という問題がある。花田さんの場合でも検討すべき問題は何もないということはない。けれども、戦争中の抵抗から戦後の運動の全面的な展開へともっとも具体的かつ直接的につながっていて、花田さんの軌跡くらい見えやすいものは数少ない。おそらく他にはいないのではないか、とわたしは思います。

 先程挙げた湯地さんの論文は、補筆された部分で、同じく抵抗的な立場に立っていたと言われている林達夫さんのケースを取り上げて、花田さんとの違いを比較・検討していす。これを読んで教えられました。わたしは二人を同じとは考えないまでも同一線上にあったろうと考えていたのですが、矢印は同一方向ではなかったということがわかりました。そのように、花田さんというのは稀有な人だったわけです。そういう点で湯地さんの文章に教えられながら、いくらか補足的なことをお話したい。補足できることといえば、わたしが花田さんとお会いして直接いろいろと教えられながら文化・芸術運動に参画していったのは一九五二年の半ばからですが、それから花田さんが亡くなられるまで、折りにふれて話していただいたり、わたしなりに感じ取ったことなどのうちのいくつかとなりましょう。それを、きょうのテーマに関する部分を振り返ったりしながら、お話したい。

 中学・高校時代——勉強しすぎて放校に

 まず最初に、戦争中の花田さんの問題について、まだこの講座では触れられていないことで、久保さんの仕事などによって明らかにされた部分などについて、補足をしておきます。わたしのつくった年表は一九三三年(昭和八年)二四歳のときからになっています。これは、花田さんが福岡から東京へ出てきて、勉強をしながら仕事の方向、自分の人生の方向を決めようとしている時期からの出発です。で、この年表に即してお話する前に、では上京以前の花田さんは、どのような勉強をし、どのような問題にぶつかってきたのかということをみておきましょう。わたしなども全集補巻㈼が出るまでよくは知らないできました。そこに載った久保さんの年譜とそのもとになる研究を見るまでは知らなかったことが多い。

 一口で言えば、生活上の苦労を背負いながら猛烈に勉強する青春時代が花田さんにはあった。中学時代(旧制、五年)は柔道に熱中し、卒業後鹿児島の第七高等学校(旧制、三年)に入りますが、わたしの経験では、なみの人は中学時代は受験勉強などもあって、読書経験はたかが知れているのに、花田さんは中学時代、一方で柔道に熱中しながら、例えば鴎外全集を読破していた。リルケなども読んでいる。戦後、花田さんの指導下で仕事をしているとき、「武井君、これを読んだか」と岩波文庫版のリルケの「家常茶飯」という戯曲のことを聞かれて——たいてい花田さんから言われる本はそのころ読んでいなかったのですが——このときもあわてて読みましたが、そこには日常生活、家族・親孝行といった問題が考察されている。わたしたち日本人は家族とか親子とかの関係を上下関係で見がちですが、リルケはそうでなく、人間同士の共生の問題として見ている。藤村の『家』に代表されるような自然主義の見方とは違うものがあって驚いたのですけれども、花田さんがこれをすでに中学時代に読んでいた。たぶん鴎外を通して知ったのだと思いますが、中学時代にもう親孝行についてずいぶん考えられていて、その考えを戦後派のわたしにぶつけて確かめようとされたわけでしょう。鴎外がリルケに関心を持ち、これを翻訳したということは当時としてたいへんなことで、まだヨーロッパでも評価が定まっていない新人の作品を訳しているわけですから。当時の鴎外の精神世界を考え合わせると、きわめて興味深いものがあります。他に鴎外は、エドモン・ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』なども訳していまして、これはすばらしい歌舞伎調の名訳で、のちに名訳といわれた辰野隆訳などはほとんど鴎外の訳をそのまま使っているようなものです。こうしたものを花田さんは中学時代から読まれていた。興味あるものを全集で読み——だから鴎外の関心あるものを一緒に考えている。それから高校に入ると、西田哲学——西田幾多郎という哲学者が京大にいて、その仕事が注目され、この世界で権威になりつつあるころでした——もほとんど全部読破していく。同じく文学世界で抜きんでた小林秀雄をよく読まれた。ここまでは、わたしなどでもそれほど違わないのですが、これから先が違う。花田さんは、読みながら、どうやらこれを批判していたらしいのです。わたしなどは取り込まれてしまうのに、花田さんは読み込んでいって批判していく。それは最初の評論集『自明の理』に示されています。ここに収録された「旗」は西田哲学批判です。花田さんは、西田哲学を批判するときそれを自分の外にあるものとして批判するのではなくて、とことんそれを読みこんで、自分の内にあるものして批判していく。小林秀雄の文学についてもそうです。小林秀雄を徹底的に読んで、「太刀先の見切り」——同じく『自明の理』に入っているエッセイです——で鋭く批判している。花田さんは、マルクス主義に到達するまでに、マルクス主義だけを勉強するのではなく、その源泉から読み込んでいく。ルネッサンスの文芸に着目するのですが、そこに至る中世の文学書・哲学書・宗教書を読み、それを踏まえてルネッサンスのものを読み、考える。そして、それらの底辺には、日本の現代における文学世界、哲学世界——そしてそれらが拠って立つ日本社会の政治・思想状況へのアクチェアルな関心と考察がある。こんなふうに言うと、そんな人の真似をすることはとてもじゃないが、……ということになりかねませんが、たしかに花田さんは天才的な人ですが、天才は努力が創り出すことを身をもって実践したと思うのです。それほどたいへんな努力をして勉強された人であった。つまり、なにごとを為すにしても、勉強しなければ話にならない、という当たり前のことを、身をもって示してくれている人だともいえましょう。

 花田さんは高等学校で二年続けて落第しています。というのは、ほとんど学校に行かないで、行っても授業に出ないで、ひとりで勉強していた。それで出席日数(時間数)が足りなくて落第した。当時の決まりでは、二年間続けて落第しますと退学となります。家のほうの生計もたいへんだったようで、結局、退学になります。怠けて退学になったのではなくて、猛烈に独自の勉強をしたために退学になった。すでにこのころはエルンストなどのシェルレアリスム芸術やプレヒトの作品などにも興味を示していたようです。

 九大・京大時代——哲学・経済から前衛芸術まで

 それから、京都大学文学部英文科の専科に入るのですが、この前に九大の文学部哲学科に一時在藷し、ハイデッカーやキュルケゴールなどを勉強している。九大では法学部にも聴講に出かけて、向板逸郎さんのところでマルクスの『資本論』を学んだ。『資本論』を読み上げて、そのあと京都へのぼってきて、京大で西田幾多郎、田辺元の講義を聞くわけですが、いっぼう、京都の映画館で上映されたダリやプニュエルらのアヴァンギャルド映画をよく見て歩いていた。その間に父親が事業に失敗し、完全に仕送りがなくなる。友達のところに居候して、水を飲みながら本を読むという生活をする。どうにもお金に因って『サンデー毎日』の懸賞小説に応募し当選、賞金の三〇〇円で滞った下宿代などを払って当座をしのいだ、というようなことがあります。『七』という作品がそれです。     

 整理して言えば、花田さんは中学から高等学校にかけて猛烈に勉強して、勉強しすぎて高校からは放枚になった。それから、九大や京大で自分の勉強したいものを勉強された。そ乗り越えつつ、その中でマルクス主義の方法論を学んでいく。これが中学時代から京大時代にかけての花田さんの青春です。マルクス主義形成の基礎となる近代の文化、哲学、文芸、政治学、経済学を広く身につけながら、それを全体として批判的にまとめあげていく力として、次第にマルクス主義の勉強、その摂取と研鑽に入っていく、——そういうプロセスを辿ったように思います。

 いうまでもないかもしれませんが、花田さんはすべてを歴史的に系統的・体系的に学ばれたというのではなく、それよりは、例えば一九世紀フランスのフローベルやバルザックといった人たちの文学を読むと同時に、二〇世紀に入ってからのドイツのエルンスト・トラーや、あるいはイギリスのオルグス・ハクスレーなど実にさまざまな文学も読む——そのなにかに惹かれるとその追求のために入手できる作品を次々と全部読む。だからたいへんな読書量と知識になっていく——そしてなによりも重層的な問題意識が形成されていく。

 さて、そのあと、一時福岡に帰って、父親の経営する食堂を手伝ったりするのですが、あらためて上京してきたのが一九三三年です。ここからが、わたしのお配りした年表に入ります。上京しての寄宿先が三浦義一宅です。親友の姉の嫁ぎ先で、右翼の大ボスの家です。ここにしばらくいましたが、生活は自分でやらなければならないので、いろんなアルバイトをしています。年表にあるように、新開広告で朝鮮独立運動家の李東華という人の秘書となって、その自伝を口述筆記する仕事をし、翌年完成させます。その翌年満州、現在の中国東北部に渡って、中国には朝鮮人の生活区が現在でもありますが、そこを視察して歩いています。花田さんはこのあと『東大陸』という東方会の機関誌に中国問題と朝鮮問題に関連した論文をいくつか書いていますが、その中にこの勉強が役立てられている。そのように、生活のために勉強しながらその勉強したものを独自に自分の血肉にしていく。アルバイトで政友会の代議士の選挙応援をやったり論文の代筆をしたということですが、その論文などが残っていればまたたいへん興味深いものがあろうと思います。

 マルクス主義への道——戦時下の抵抗へ

 花田さんは三六年にマルクス主義の勉強を本格的にはじめるのですが、その前年の三五年に松島トキさんと結楯しています。トキさんは花田さんの終生の伴侶で生活面でも花田さんを助けたと同時に、終始、花田さんに対して生活者として愛情をもって批判していた。トキさんはまた、戦前の労働運動の活動家としても知られた方で、戦後初期には伊藤書店などで働きます。そのころの伊藤書店の代表的出版物が「戸坂潤選集」、石母田正『中世的世界の形成』、藤間正大『古代国家』などでした。トキさんが花田さんと知り合ったときは、結婚していて伴侶がいたのですが、その人が獄中で転向したため、トキさんは絶縁し、花田さんと再婚しました。そんなことを言ったり書いたり、まして調べたりすることは実にくだらないことで、——これは余談ですが、わたしのかつての知り合いの大学院生があるとき訪ねてきて「これから近代文学史の、とりわけプロレタリア文化について研究をしたいのですが、何か穴はないでしょうか」と尋ねてきたことがある。「穴はないか」とはおかしな問いだけれども、「佐野碩という重要な演劇人がいたがメキシコに渡ってしまつたこともあってその人の研究はほとんど進んでいない、それをやったらどうですか」と答えたら、しばらくしてその男が佐野家——佐野家は古い医家なのですが——の家系調べをやって論文を書いていた。調べるなら佐野学や佐野博らをふくめてかれらをとりまく後代の社会状況からにしたらどうか、なんたる奴かと思いましたがとにかくそんなふうに松島卜キさんを調べても何の意味もありませんが、ただ、花田さんがマルクス主義者として自己を形成していく過程で、労働運動の活動家の花田トキさんと知り合って結婚したこと、その後の作品の中でよく、トキさんを生活者、実践家として登場させ花田さんの批判者にしていることを考えると、興味のあるところでもあります。

 そのようなことがあって、花田さんのマルクス主義者としての人生と活動がはじまる。時はすでに一九三七(昭和一二)年日中戦争が始まった年です。湯地さんの『プロレタリア文学運動——その理想と現実』(晩撃社刊)をお読みになった方はご存じのように、昭和八、十年(一九三三、三五年)を境に、政治運動をはじめ文化・芸術運動までが全面的な解体にさらされていく。一九三三年には京大の滝川事件があり、佐野、鍋山の転向もこの年です。翌三四年になるとプロレタリア作家同盟が解散、三五年には共産党の『赤旗』も終刊になります。その時代に花田さんは、労働者活動家の女性と結婚し、マルクス主義の文献も精力的に読んで、そして『東大陸』——これは、中野正剛という当時の右翼政治家で、やがて東条とは対立して、最後は追い詰められて自殺した人のつくった東方会という組織の機関誌です——に原稿を書いている。これは、花田さんのお父さんが少年時代から中野正剛とは知り合いだったらしく、そうした関係と、花田さん自身が中野秀人さんという中野正剛の弟さん——詩人・評論家で、外国文学の紹介もされ、同時に絵描きでもあった、おもしろい人です——と親しい友人であった、また『東大陸』の編集者が福岡中学の先輩にあたる人だった、というようなことがあって、その場を借りて仕事をするようになった。やがてその仕事を通して『東大陸』の編集者として雇われて、実質的には他に編集者がいるわけではないから花田さんが編集長的な仕事をしていった。のちに吉本氏がこれをもって(でしょう)花田さんが左翼から転向して右翼になった転向ファシスト だと誹諦するのですが、まつたく反対で、花田さんはこの時期にマルクス主義者として自己を形成しながら抵抗運動を進めていったのです。しかも、周りは右翼といった環境のなかでです。

 一九四一(昭和十六)年十二月に太平洋戦争がはじまりますが、その前年一九四〇(昭和十五)年に大政翼賛会が結成されます。大政翼賛会が結成されると、東方会などもつぶされてこの中に統合される。そうした流れの中で三九年末に花田さんは同志とかたらい「文化再出発の会」を発足させ、翌年一月に『文化組織』を発刊します。これはなかなか見事なものなのですが、のちに文学報国会ができ、用紙統制が行なわれて全部統合され、『文化組織』そのものも用紙の割り当てがなく一九四三(昭和十人)年十月には廃刊せざるをえなくなるのです。その間約四年間にわたり、苦労をしながら月刊で発行を続けていった。花田さんの戦中の抵抗とは、この活動が軸となれます。

 花田さんはこの「文化再出発の会」を中野秀人さんらと結成しますが、これを作って岡本潤さんと知り合い、いっしょに仕事をはじめます。ほとんどの運動がつぶされていくときに、花田さんは敢然と与えられた条件下で抵抗の文化活動をはじめる。まわりには右翼がたくさんいるという中で活動をはじめる。花田さんは、韜晦、つまり論理をあいまいにすることで真意や真姿をくらますというものとしてレトリックを使ったのではなく、きわめて困難な状況下で真実を描き出す方法として、そしてそれを自分の伝えたい人に伝えていくための方法として使った。よく読めばきわめて論理的なものであり、真実を覆い隠そうとしたものではなく、真実を与えられた条件の中でいかに正確に語るか、という苦労があのような文体を生み出してきたのだ、とこの講座の第一回で湯地さんが指摘されましたが、まさにそのとおりだとわたしも考えます。「文化再出発の会」の「再出発」という言葉も、当時、「新体制運動」というものの宣伝が進んできて、今までのものは全部だめでこれからは新しい国家主義的な体制のもとに新しい文化をつくりなおさなければならないという「理論」が流行っていたのですが、それを逆手にとったものです。しかしそれは、左翼運動がみなつぶされてしまったが、しかしここでがんばってもう一丁やろう、という「再出発」の意味にもとれるわけで、こうしたことばの二重性をうまく使っていくという知恵にわたしは重要な意味があると考えます。

 そしてこの『文化組織』で花田さんは、一九四〇(昭和十五)年から四二(昭和十七)年にかけて、のちに『復興期の精神』にまとめられる連作の諸論文を書き継ぎます。花田さんは戦後、「なかなか書いてくれる人がいないので、しかたがないから自分が書いた」という言い方をしていますが、そしてそれもあったでしょうが、やはり、絶対これは自分が書きたい、書かなければならないということがあって書いていったものだ、と思います。総目次を見ますと、実にいろいろな人の力を広く集める努力が行なわれていたことがわかります。その中に、小野十三郎の『詩論』の連載があります。詩人としての小野さんの理論を確立した仕事です。日本の伝統的叙情詩に対して、ものをものとしてしっかり見ていく、ドキュメンタリズムともいうべきリアリズムの詩論です。この『詩論』は戦後、『復興期の精神』と並んで単行本にまとめられます。そしてこの二つが戦後の文化運動の出発にあたって大きな役割を果たすことになりました。

 またこの時期に花田さんは、戦後の『アヴアンギャルド芸術論』で展開する考えの基礎をほぼ育てていたと思われます。シュルレアリスムが人間の意識の内面、さらには下意識の世界を捉えて表現していくことと外部世界の把握・表現との対応関係を見ていくことの必要、外部をリアリスティックに捉えていくドキュメンタリー精神と、人間の内部をリアリスティックに把えるアヴアンギャルドの表現との対応関係をきちんと描き出していくことの必要性を、花田さんは戦後説いたのですが、その基礎になるシュルレアリスムの唯物論的捉え方は、瀧口修遺さんの『近代芸術』(三笠書房)から得たわけです。そして、この仕事が生みだしたものに、戸坂潤が組織した唯物論研究会の活動があります。

 戦時下の抵抗ということでは、マルクス主義哲学者であるこの戸坂潤の活動が逸せません。この方は敗戦のときに捕まっていて、三木清と同じで獄中で亡くなりますが、最後まで抵抗した人です。先程も触れたように、一九三五年に共走党の機関紙『赤旗』が終刊になり、共産党中央委貞会も壊滅するし、一九三四年以降にはプロレタリア作家同盟をはじめ進歩的な文化団体も弾圧によって解散していく。そういう状況の中で、抵抗線を引いていったものに、戸坂潤らの唯物論研究会がある。これは人民戦線的な広がりがあった。瀧口修造さんは、戸坂潤を通して唯研に参画していき、そこでこの仕事などもまとめて『近代芸術』を著わしていった。瀧口さんはマルクス主義者ではありませんが、唯物論の立場から人民戦線・統一戦線的な文化活動に協力をした一人です。

 「非転向」と「転向」——花田溝輝の見方

 そういう活動をする中で、花田さんは一九四二(昭和十七)年に、徳永直の「日本の活字」(単行本では『光をかヽげる人々』に収録)を読んで非常に感銘を受けて、のちにこれを戦争中の抵抗文学の代表作を選んだ『日本抵抗文学選』(三一書房刊)の中に入れます。

 花田さんの考えの中にはこういうものがあります。たとえば転向の問題について言いますと、徳永直は共同印刷の争議を大衆性をもった長編に書き上げた『太陽のない街』によって小林多喜二らと並んで戦前のナップ系のプロレタリア文学運動を代表する作家となるのですが、のちに転向し、やがて『太陽のない街』も含めた旧作の絶版声明をし、戦争への協力誓約をしていく。天皇制権力に屈伏したわけです。その転向は、無名の人がした転向とはわけが違う。この声明は大きな衝撃を与えただろうと思います。それは大きなマイナスなのですが、花田さんは、だからといって徳永直は全部だめだとは考えない。一度は無残に屈伏した作家でもまた立ち直ってきていい仕事をすれば、それはそれとして評価する。花田さんにとって徳永の『日本の活字』という作品はそうしたものだった。徳永は共同印刷の植字工だったので、その職業を通してもう一度日本の文化と活字の関係をきちんと追求する労作を書いたわけです。それによって、技術とか文化というものが人間の努力の積み重ねを通して伝えられることの意味を表現した。花田さんが、この作品を評価していったことの中には、いい作品はいいというだけのものではなくて、かれの転向についての考え方、さらに人や仕事についての評価の基準というものがあるわけです。のちに花田さんが「モラリスト批判」で展開する考え方がそれです。ある人を転向したからだめだと道徳的に裁断して、そのすべてを否定するのではなくて、たとえ転向しても、どうして転向したのか、転向してからその人は何をやったのか、ということを視野に入れて、実際その人が何をやったのか、その全体をきちんと科学的・実証的にみて、それで評価をしなければならない、というのが花田さんの考えだったのでしょう。そういう点で、花田さんの日本のプロレタリア文学運動への評価のしかた、日本の政治運動への評価のしかたも、どんな仕事をしたか、いかに変革を実践したか、を実際に即してみることでした。非転向はいいに決まっている、ただ、非転向だということでえばっても意味がない、転向しないで何を為したか成し遂げたかです。

 リベラリストの日本政治思想史家丸山真男さんが、日本共産党は非転向といっても結局は敗北して幹部が獄中にいただけだ——こんな乱暴な言い方はしてはいませんが——戦争を止められなかった点で戦争責任はある、と言って、日本共産党の宮本顕治らをカンカンに怒らせましたが、この論議では、丸山さんには一理あるぐらいで、共産党のほうに二理あった、とわたしは思う。丸山さんの一理とは、共産党は革命によって帝国主義を打倒して戦争をくいとめなければならないのだが、その任務を果たせなかったということの指摘です。たしかに共産主義者には運動敗北責任はあるのであって、それは自己批判しなければならない。しかし、共産党に戦争責任があるというのはおかしい。戦争責任は日本帝国主義にある。天皇と軍閥、ブルジョワジーと地主階級、これらの支配階級にこそ戦争責任がある。これはあたりまえのことです。ところで花田さんは、非転向は正しい、しかし非転向でも敗北したことについては革命政党としての自己批判が必要だ、と同時に、そして花田さんは、非転向派の人々にたいして、転向した人もどういう事情で転向したのか、しかし転向したけれどもその後どうしたかということをよく見て、転向したからこいつはもうだめな奴だと切り捨てるようなことをやってはいけない、と言いたいのです。そういう考えが花田さんの中にはあって、戦争中に転向派でも再転向させて抵抗する。あるいは抵抗を組織するなかで再転向させようと考え、それを実践したのではないか、とわたしは思うのです。

 いっぼう、転向した人たちが戦争中をくぐってきて、戦後起ち上がってきた。文学では『近代文学』第一次同人たち——荒正人、平野謙、本多秋五、埴谷雄高といった人たちです。このうち埴谷さんは他の人たちと少し違っていて、アナーキストだったのが、レーニンの『国家と革命』を読んでアナーキズムの国家論を打ち破られてマルクス主義に転換し、共産党に入って活動した経歴をもつ。党では非合法の農民部の活動をやっていて逮捕され、転向して、極端な個人主義とアナーキズムへもどっていった。この埴谷さんも含めて『近代文学』の人たちは、転向後、抵抗らしい抵抗はしていない。そして戦後を迎えると、現実に背を向けていた自分のことは語らずに、もっぱら過去の運動の中にあったいろいろな欠点をいかにこれがだめであるかをあげつらう。そこからは、転向の自己合理化ぐらいしかでてこないし、結局、運動全体を傷付け否定するようなことを展開していくことになる。

 花田さんは、こうした転向派の考え方と、さきにみた非転向派の考え方と、両方に対してかれらのように問題を道徳的に裁断していくだけではコミュニストとしての問題の積極的解決には役立たない、転向・非転向の両者を含めて、その後、どういうことをしたのか、転向に見えても抵抗闘争をやった人たちもおり、ほんとうに転向して運動を破壊していった人もいます。そういうものは実際に即して検討されて評価・裁断されるべきなんだ、というのが花田さんの考えだった、とわたしは思います。戦後、後期の仕事でも、花田さんはいろいろな事象に即して、この問題をくりかえし考察していますが、その検討は別の横会にゆずるとして、ここではこの位にとどめておきます。

 花田さんはこうした観点から、徳永が転向はしたけれどもとにかく『日本の活字』を書いたということについて、これを評価したわけです。花田さんの考えが文章としてあの当時出されているわけではないけれども、もしそうした考えが伝えられていけば、困難な中にあってもできる範囲で闘おう、地を這いずってでもやれることはやっていこうという人たちをどれだけ励ましたかしれない、とわたしは思うのです。

 花田さんの考え方はそういう点で、たえず困難に直面して飢えに苦しんだり、追い詰められ万事窮したりしている、そういう人たちの立場に立っている。

 戦時下の抵抗——屈折した闘いから戦後へ

 最近、菅本康之さんが『フェミニスト 花田清輝』という一本を上梓されましたが、菅本さんが正当にも見抜いたように、花田さんはセルバンデスの「ドン・キホーテ』では、だれでも注目するドン・キホーテよりもサンチョ・パンザに注目する。さらにサンチョよりかれの奥さんに注目する。というように、主人よりも従者、男よりは女のほうに注目し、その視点からその世界をみる。そのように花田さんはブルジョワジーよりプロレタリアート、富めるものより貧しい人、腹いっぱいの奴より飢えている人、そういう人たちの視点からものを考える。若いときから一貫しているのです。ですから、いま流行のフェミニズムからみると花田さんこそ日本のフェミニストの嚆矢ということになる。それは——花田さんの容姿や挙措からはおよそ窺い知ることはできないような——なみでない苦労をしてきたことから発するものであって、そういうようなところが花田さんにはある。わたし流に言えば、階級的なものの見方が観念ではなく、身に染みついているのです。

 そういうように、花田さんは自分の置かれた状況、与えられた条件を——たとえばアルバイトとしてものを書いてもアルバイトという条件を——使い、虐げられたもの、苦しんでいる人たちのために自分の苦しんできた思いをこめて、手に入れた学問や理論の力、その表現の力を使ってかれらの代弁をやってきた。そして協力できる人たちを幅広く集めるわけです。『文化組織』もそうやって組織してきた。岡本潤さんも転向しているんです。しかし、花田さんは一緒にやった。誠実に仕事を担ってくれる、ということで岡本さんを同志と考える。ここに集まっている人、ものを書いてくれる人たちの中には文学者・学者もいます。中にはイデオロギー的には右翼的な考えをもっていた人もいたのかもしれない。そういう人たちも何か仕事に協力・協働できるかぎりは、その側面を積極的に評価して協働者・同志にしていく。そういうふうにしなければ、戦争中にこんな〔抵抗〕運動ができるわけがない。そういうことをやっていったということがすばらしい、と思うのです。

 年表にもでてきますが花田さんはしょっちゅう首になったり会社を辞めているのですが、たとえば「軍事工業新聞』(いまの『日刊工業新聞』)に入るとそこでもよく勉強する。宮本忍さんという、戦後、結核問題などの専門医として有名になったお医者さんがいて、この人の本を読んで、京浜工業地帯の労働者の中にどうして結核が多いのか、どうすればいいのかその対策を書かせたり、話を開いて記事にしたりしている。そういう仕事をして、少しでも労働者に実利的に役立つことをやる。生計のための転職だとしても、いいかげんなことを書いて飯を食えばいいというのではなくて、『軍事工業新開』の記者になれば、ちょっとしたことでもいいから労働者の役にたつことを書こうとする。それで飯も食っていく、そういう活動をやった。それがほんとうの抵抗者の姿ではないか、とわたしは思います。

 『軍事工業新聞』の記者時代の花田さんの活動をよく伝えるエピソードとして、こういうことがあります。京浜工業地帯を取材して歩いて花田さんは、日本の軍需工場の労働者の扱いとドイツでナチスがやっている軍需工場での労働者の扱いとを比べ、日本のほうが劣悪なことを示し、これでは日本の労働力が摩滅してしまう、そんなやりかたではだめだ、ということを書く。階級的立場に立って、労働者階級の勝利のためにこれをやれ、と言っているわけではなくて、こんなやりかたでは戦争を遂行することもできない、もっと労働者を大事にしなければ「長期戦」はやっていけないではないか、ナチスにも劣るではないか——そういう敵のタテマエを逆手にとった論法を展開しながら抵抗していった。抵抗をしたといっても、隠れて爆弾でも作っていた、あるいはどこかでビラを撒いていたというわけではなく、花田さんの仕事はまったく公然とやったものです。そういう範囲でできることを可能な方法を工夫してやった。あとで花田さん自身が書いています。文化活動をはじめたときでも売れないのを喜んだ。そう言うとおかしいけれども、自分はどうしても書くべきことを書いて、それを読んでもらいたい人には読んでもらいたい、しかしそれがそんなに広く評判になって捕まっては困るわけで、見破られないですんだのは助かった、という意味で「あまり売れないのがよかった」、と書いている。そういうような活動をした。

 このようにして一九四五(昭和二十)年、三六歳で八月十五日を迎えるわけです。その間に、昔上京時に一時寄宿した三浦義一とその友人尾崎士郎を批判した文章を『現代文学』という雑誌に書きます。この『現代文学』を自費で発行していたのが大井広介という作家です。大井さんは九州の麻生鉱業という炭坑ブルジョワの一族の一人で、当時井上友一郎ら、平野謙もその一人ですが徴用で軍需工場にひっぱられそうな友人の文学者たちを、それではかわいそうだということで、麻生鉱業の勤労課に籍を与えて世話を焼いたような人です。その『現代文学』誌上で花田さんは右翼の大物たちを批判した。それを読んだ影山庄治という右翼歌人——当時は大東塾の塾頭で、一方、尾崎士郎らと新国学協会を組織していた——の塾生らに襲われ、原稿の取り消しを要求されて暴行を受けた。なにしろ花田さんも柔道有段者ですから乱闘となったようです。のちに花用さんは原稿取消しを承諾している。この事件について友人の証言によりますと、花田さん宅にはマルクス主義の文献ほかいろいろな文書がありましたから、ガサを入れられると仲間に迷悪をかけることが考えられたので、それを避けたということです。結局花田さん宅は警察からの授査は受けないで済んだらしく、起訴もされなかった。花田さんは被害者なのですが、花田さんのほうが詫び状を入れて、これを事件にしないということで収めたようです。釈放されてから花田さんは影山のところへ行って原稿を取り消すと言った。そんなひどい苦労もした。おそらく——わたしの推測では——そういう身の処し方の中にも、形式的な筋を通すことよりも実質的なことを大切にする、すなわち自分が守らなければならないものは何か、どう対応するのがプラスなのかを考えて身を処すということがあったのではないでしょうか。

 そんな苦労もあって敗戦を迎える。ここのところはいろいろ論議にもなるでしょうが、おそらく花田さんは、戦争末期には「戦後革命」というものを考えていたでしょうが、敗戦の条件があれで十分だったのか——もっとひどいめにあって苦労したほうがいいというわけではありませんが——開いておきたかったという思いがあります。それはとにかく、戦後への対応は速かった。八月十五日の敗戦があって、十月にはすでに綜合芸術協会の設立の構想が立てられています。これは岡本潤さんの、のちに『戦中戦後』と題された日記による記録なのですが、お配りした年表に挙げているような人たちを協会のメンバーとして考えている。これは後に、綜合文化協会の設立、機関誌『綜合文化』の発行につながっていくわけです。

 実際の綜合文化協会のメンバーにはならなかったようですが、花田さんの構想には旧ナップの文学者で中野重治が入っています。花田さんは戦争中の中野重治さんに対しては一定の批判ももっていたようですが、いっぼうではなおかつこの人と、「もし戦後を迎えられればいっしょに運動をやりたい」という気持ちをもっていたと言っています。戦後のあるアンケートで花田さんは好きな作家に中野さんを挙げて、嫌いな作家に宮本百合子さんを挙げています。宮本百合子さんについてわたしは違う考えをもっていますが、花田さんが挙げた理由はある程度わかる気がします。それは戦争中百合子さんは中野さんといっしょに二人だけ特別の執筆禁止処分をくらい、一切のジャーナリズムから締め出され、書く場を失うのですが、百合子さんはその前までは「冬を越す蕾」を期し、さらには「明日への精神」を揚げて頑張る。書けなくなればその姿勢を貫き徹した。あの人自身が光だったと思うのです。百合子さんの掲げる光によってやっとこさ戦争をくぐり抜けた人たちがいる。花田さんはそれを認めないのではない。しかし、花田さんはいっぼうでは、転向しながらもまた立ち上がって闘いに加わってくるような人へのあたたかい見方というものがあった。同志としてもどちらかというとちょっと弱くて負けたような人たちで、しかし粘り強くがんばろうという人たちの立場により多く立ったということがあるでしょう。花田さん自身は芯は強い人で、「ぐにゃぐにゃした抵抗」というもので弱い人たちとも連帯しょう、それを支えていこうとしていた——その意志があの「好き」「嫌い」に反映していたとわたしは思います。中野さんの戦中の抵抗の姿勢により多くの親近感をもっていた、ということでしょう。

 もう一つ、花田さんの百合子さんの文学への不満があった。のちの「時代区分」の考え方に関係があります。つまり花田さんは歴史の見方は徹底的に革命を基軸に見るべきだ、だから何を時代の区切りにするかというと、二〇世紀について言えば一九一七年のロシア社会主義革命をもって画期とし、もう一つは一九四九年の中国革命の勝利をもって画期とするということをくりかえし主張していた。第一次世界大戦の勃発と終結をもって画期とし、第二次世界大戦の勃発と終結をもって画期とするのではない。戦争中心の歴史観ではなくて、革命中心の世界史観を持たなければいけない。これが花田史観で、宮本百合子さんの最後の代表的著作『道標』——中断はしましたが立派な仕事です——が戦争を中心のものの見方にとらわれている、といって批判をしたことがある。むろん、花田さんもことわっていますが、どうしようもない小説だとかだめな作家だとか考えているわけではない、ただそういう問題があるよと言っているわけです。史観問題については花田さんの考えに賛成です。もう一つの戦争への対処については、わたしは宮本百合子さんは文学者としての身の処し方は第一級であり、比類ない作家だったと思うし花田さんのような若くて無名であったけれどもたくましく過ごした方もまたみごとだと思います。いっぽうをとっていっぽうを否定する考えにはわたしはなりません。

戦後への出発——綜合的芸術運動の構想

 さて、戦後の出発にあたって花田さんは、戦中からの経験にたって、新しい状況にも対応して運動を構想しました。戦中の困難きわまる時代でも仲間といっしょに自立した表現の手段をつくりだし、それを持続しながら自分自身も表現を通じて豊かになっていく、仲間にもそれを伝えていく。そして実利の上でも少しでも労働者や民衆に役立つことをやっていく、という戦争中に示された抵抗精神、それにもとづく運動観を戦後の新しい条件の下に適用し、花田さんはみずから綜合文化協会を作った。新日本文学会の発足、それにも参加していく。と同時に、『近代文学』にも積極的に協力し、その第一次同人拡大時にそれに参加していく。それから野間宏、椎名燐三、埴谷雄高、梅崎春生、小野十三郎、中野秀人、のちに佐々木基一、関根弘、安部公戻らが参加した「夜の会」というものがあって、日本の戦後のアヴァンギャルド芸術のひとつのゆりかごのようなものになったのですが、そこにも参加して岡本太郎さんといっしょに中心になっていった。自分が中心になるからみんな集まれというのではなくて、そういう可能性のある運動には積極的に参加して、そこでできるだけ多くの可能性ある人々とともに仕事をしていこうと考え、そしてそういう運動を推進していった、というのが一九五〇年代までの花田さんでした。

 どんな運動もほんとうに展開できるのは二、三年、長くて五、六年で、再編過程に入ったり、休眠状況になったり、ときには財政的にゆきづまって解体したりします。そうするとまた新しく組織を作り直してがんばる。それが「運動族」です。花田さんも終始、そういう活動を展開してきた。のちのちまで花田さんと運動との関係はそんなふうだった。そういうなかで、花田さんの運動論・運動観として特徴的なものとして抽出しうるものがいくつかあります。

 その一つは、一九六〇年代あたりに前面に押し出されてくる、ジャンルを越えた総合的芸術運動という観点です。視聴覚文化、映画あるいは演劇さらにはミュージカルという分野との積極的な交流が主張され、実践される。批評もジャンルを越えて行なう。作家がシナリオや台本も書く、他分野の人たちに文学についての発言をしてもらう。そのように、あくまでも総合的な視野に立とうとした。文学は活字文化の中に閉じこもっていれば、衰弱していく以外にない。文学が一九世紀から二〇世紀へ諸芸術の中軸を担いつつ培ってきたクリティシズムがほんとうに生きていくためには、ジャンルの枠を打ち破って総合的な芸術創造の場に生き返らなければならない。日本の文学はすでに明治末期に近代化のなかで衰弱し自然主義文学を経て、私小説におちこんできた。プロレタリア文学がそれを打破しょうとして中断された。時代が転挨した新しい文学運動は芸術総合化、あるいは綜合的芸術の視野をもって、もう一度変革されていかなければならない。文学は一度死んで、いろんな大衆的諸文化との交流の中で、その批評性を再組織し生き返るべきだ。文学が培ってきた批評精神は総合的芸術運動、芸術総合化のなかで生かされなければいけない、という考えです。

 文学と他ジャンルの芸術との結合、その総合化という点で、おもしろいのは、次回からの第二期の連続講座でとりあげる大西巨人さんの文学です。大西さんはそれこそ活字文化の権化のように思われる方が多いと思うのですが、事実そうです。そうですけれども、『神聖喜劇』をちゃんと読まれたかたはわかると思いますが、あの大長編は、文学が他のジャンルで実験したさまざまの形式をもう一度文学に集大成してきたような趣さえあるのです。たとえば映画のシナリオのいちばん新しい成果を取り入れている。戯曲形式も入っている。短歌、俳句、詩もどんどん取り込まれる。それから、小説の中に独立した話を放り込んで、小説の広がりをもたせている。視点も多様になり、当然さまざまな語り口が競演することになる。とりわけ、古今東西の文書からの引用で構築される表現等々——こうした作業は古典文学の中にもいろいろに試みられていて、だからアヴァンギャルドは突然二〇世紀になって出てきたわけではなくて、時代時代に、前衝的な作家が努力してやってきてもいる。大西さんは文学の権化のように見えてますが、衰弱しゆく近代文学を超克しようという作家ですから、総合芸術家的な視野を、『神聖喜劇』一作の展開の中に示されているわけです。花田さんはそれを集団化してやろうとした、ともいえます。

 それから、花田さんがつねづね口にしていたことは、運動はクリエイティプでなければならない、作品を創っていくことをめざす。批評は、そういう方向性を持つべきだ。そういう意味で、運動にはクリティークが必要だということです。つまり解説文がいくらあってもだめで、ほんとうの批評がなければならない。作品も同じで、そこに内在的に批評精神が貫かれているべきだ。——そういう点でクリエイティプなものはクリティークに満ちあふれているものである、そういうものを作らなければいけない。——小説であれ、映画であれ、演劇であれ、運動をとおしてどれだけのものを作るか、それがどういうふうに現実の中に生きていくか、それをはげましあい協力しあって集団でやろう——それがわたしの理解している花田さんの主張でした。

 そういう意味で花田さんは「共同制作」ということを言った。それは、みんなで集まって分担しあえばなにかができるといったようなものではない。一人一人が全体を表現する。その競作を一つのものとして創る。そういうものが一〇本、二〇本と集まれば、追究すべき世界の全体が描き出される。花田さんの「共同制作」というのは、補い合って一人前になりましょうというのではない。みんなである対象について、あるいはあるテーマについて、それぞれが全力で競う。それを五人なり一〇人なりがやったのを重ね合わせて、より強力なもの、より全体性のあるものを創り出していく——そういう仕事をやらなければいけない。そのためにはまずディスカッションをして共通の課題をはっきりさせて、どういうふうにやろうかというベクトルを確認したら、それぞれが「おれが全体をやるんだ」というつもりで取り組む。だれかががんばってくれるだろう、おれはこの部分だけやりますよ、というようなのをいくら集めてもだめだ、そんなのは共同制作ではない——そういう考えが花田さんの運動論の基底にはあって、芸術創造は集団でなければならない、運動としてやらなければならない、ということを繰り返し言い、そして実践していった。

 だから、横への広がりを花田さんはいつももっている。同時にそのつながりを通して、あとの時代へとつながっていく。それがどれだけ広がるか広がらないか、つながるかつながらないかは運動を構成する者のにもよるけれども、時には時代によってその運動の火が消されてしまうこともある。しかし、できるかぎり、火種は伝承され、次代の誰かが運動をやろうとするときにそれが一気に生き返っていく。そういう仕事をやろうと花田さんは呼び掛けた。たえず運動腐の中でそれを呼び掛けてきたし、それをやろうとしてきた。

 そういう意味で花田さんは戦後の四五年から五〇年代半ばのプロセスを見ますと、可能性のあるところにはいずれへでも行って、そこで一員として、また必要と要望とがあれば中心になって活動を展開した。

 花田溝輝の運動論——「楕円」と「群論」の思想

 そういう中で『復興期の精神』の「楕円幻想」で描いた運動論における楕円の思粕すなわち、一つの中心だけで円を完結させるのではなく、二つの焦点を置いて思い切って楕円の世界を描けという考えを実行していく。それを広げていきますと、「群論」に示された、あのガロアの群論の世界を運動の組織論として推進します。それは共通項を持つ人々を群としてとらえ、運動としてまとめていく。運動家は運動の科学というものをきちんとふまえて、自分の役割に応じて自分の身の処し方も考えていかなければならない。そういう考えに立って花田さんは、運動の組織運営にあたって、形式で言えば、独裁ではなくて民主主義的なものを非常に大事にされた。モノローグでなくダイアローグで。一人が命令してやるのではなくて、対話、それから座談が大切だ、討論が大切だ——という主張で、それが協働の基礎に置かれた。

 それからもうひとつ、非常におもしろいことは、花田弁証法の特異さです。「対立物を対立したまま統一する」としちゃうと言うんですね。テーゼ、アンチ・アーゼ、ジン・テーゼの定式では対立はアウフ・ヘーペン(止揚)されて統合になるのですが、花田弁証法では対立の内包するダィナミズムをそのまま生かしてクリエイティプな力にしていくという考えです。花田さんはわたしに対して、若くて無知で鼻柱だけは強いわけのわからない奴だけれども、いつも対等に扱い、「とにかく対立しろ、君はもっと僕に対立しなければだめなんだ」と言って、自分の意見に対立して討論を仕掛けることをすすめ、それをおもしろがった。それで花田さんも多少は自分が新しい視野やアイデアを得ていたようにも思います。「対立物を対立したまま統一」するという考え方は、花田さん独特のもののようにわたしは思うのですが、これは大変民主的な運動論です。運動民主主義の生み出すこのダイナミズムを大切にした。これは民主主義の精神がなければできないことです。

 のちの花田吉本論争ですが、花田さんははじめ吉本さんを挑発するポーズをとるんです。それは何も敵対しょうというのではなくて、対立する要素があるのをちゃんと見ていて、だからその対立点を明瞭にして討論をし、それを通して将来の協働の場を作ろうという意識があったと思います。それに対して吉本さんは敵対的・暴力的に攻撃に転じていった。とにかく、吉本さんは、「おれが死んだら世界は和解してくれ」(「異数の世界におりていく」より)という人ですから、「おれが生きているかぎりは世界を和解させないぞ」とばかりに論争した。つまり、新しい真理に到達するために異なった意見をダイアローグでつきあわせてたたかわせる、そのたたかいじしんをクリエイティプなものとしていこうというのではなかったわけです。政治的姿勢に置き扱えていえば——これはわたしなどにはのちに「ああそうだったのか」と解ってきたのですが——吉本さんは支配体制との対決を基本軸としているのではなく、日本のマルクス主義的左翼への怨念にみちた敵対心が存在していたわけです。むろん、それは「論争」の過程でいっそう増殖されていったのですが……。こんにち、久保覚さんの労苦で掘り起こされた諸資料、湯地朝雄さんの読み込みなどで明らかな真実に照らせれば戦中の花田さんに対する「転向ファシスト」といったレッテルばりなど、ルールもなにもあったものではない、やくざの振うめったうちの暴力のようなものだ、と言うべきでしょう。吉本さんの「論争」は、茂吉の短歌論争、宣長の国学論争のように、自分の派や閥をひろげようという闘いに類似しています。

 花田さんの討論はちがう。それは、花田さんの文章をよく読めばわかります。自分の文章の中に生き生きとした対話がある。自分の前段の主張を後段でひっくり返してみせたりする。読者に考えさせるのです。プレヒトの劇作法に通じるものがある。集団・運動といっても、参加者を部品化して身動きできなくするのではなく、組織には組織の科学があることをわきまえ、その方法をそれぞれが自覚して身につけて、それに習熟していく。その中でそれぞれが個性を発揮してクリエイティブな仕事をするという理想の追求です。その方法をやれば、対立者も協働者にとりこめるのです。

 花田さんは戦後初期、福田恆存ともいっしょに仕事をしました。そのうち福田はイデオロギッシュになって政治的反動の方向にいってしまう。そうなってからも、わたしが花田さんといっしょに芝居を見に行ったりすると、たまたま福田恆存に会う。会うと二人はうれしそうに話をしていました。もちろんそれでどうなるというわけでもないけれども、才能があって可能性がある人に対して——とうていこれはぼくにはできないことですが——ていねいに親しく対していた。花田さんはそういうことができる人だった。それはこういう方法論が身についていて、困難の状況下で運動をすすめてきて、そういう苦労をする中で、できてきたものではないか、とわたしは思います。

 〈質疑応答の中から〉

 花田溝輝と『近代文学』同人たち

 花田さんは『近代文学』の第一次同人の仕事を全部否定しているわけではありません。たとえば、『近代文学』派に共通する、半封建的なものに対しての近代的なものの追求と実現に一定の意義を認めています。しかし、花田さんは近代資本制社会を止揚しようとしているのですから、近代の行き詰まりのなかから生まれて、近代の批判者でもあるアヴァンギャルド芸術を媒介として、リアリズムの革新、社会主義的なリアリズムを追求しようとしていたわけです。いつまでも個人の主体性の確立にこだわり、そこに止まり、近代的エゴの確立が大事なんだというような、花田さんに言わせれば半世紀も逆戻りしたようなところに足ぶみしているかれらに対しては批判的にならざるをえないわけです。しかもそういうモラリズムの観点を一歩も出ないようなところから、それより遙かに先を進もうと苦闘するものをあげつらう「保守」性には、辛辣な批判を浴びせたのです。

 しかし花田さんは、日本の近代文学の中で、有島武郎の『或る女』を最高傑作として評価しています。明治社会で自立していこうとした女性が日本の「近代」とぶつかってゆく悲劇的姿をあれだけ措いた作品は比肩するものがない。小説としての方法も、衰弱して私小説へ後退していくものを見事に超えています。わたしの知る限りでは、大西巨人さんも第一等の作品は『或る女』だとしていたと思います。

 日本に近代的な骨格をもつた文学を確立していくことに花田さんはむろん反対ではなかった。ただし、それをさらに乗り越えていこうとしたのが花田さんです。世界文学のレベルから近代文学のゆきづまりを見ていて、それを越えようとする文学としてプロレタリア文学とアヴァンギャルド芸術をみ、その両者を統合し、両者緊張関係のなかに創造力の生成を見ようとしたのです。そうした試みは、たとえ一時挫折したといえ、すでに戦前からなされているのに、戦後になって、ただ「近代文学の確立」と主張していてはダメだ、日本の遅れた文学に対する批判としての積極性を容認しつつも、そんなところにとどまっていてはならないんだという批判があったわけです。ですから、第一次同人拡大のときにさそわれて『近代文学』の同人になった。花田さんは中に入っていって、討論しながら変えていこうとしたのでしょうが、意図と見取図は正しくとも、その通りいくかというとは、話はまた別問題です。なかなか成功しないばかりか、非常な困難につきあたっていくわけです。しかしそこに立ち入りますと長くなりますから……

 「政治と文学」論争、日本共産党五〇年分裂と

  文学運動内の抗争を経て

 花田さんは、敗戦の翌年十月に新日本文学会に入会しています。戦争中から機会が来たら中野(重治)さんとは一緒に運動をやりたいと思っていた、とのちに語っているように、花田さんはやはりプロレタリア文学運動の伝統を引き継ぎ 但し唯引き継ぐのではなく批判的に発展させることを望んでいた、と思われます。しかし、中軸で活動をするようになるのは、だいぶ後になります。敗戦後の数年は、花田さんは、みずからつくつた綜合芸術協会(機関紙『綜合文化』)の活動(一九四七年)、『近代文学』同人への参加(一九四七年)。「夜の会」の結成(一九四八年)が中心になります。

 この間に、新日本文学会は、戦前のプロレタリア文学運動の全盛期の中軸だったナップ系の文学者を中心に運動の態勢を整えていく。その中で、プロレタリア文学運動の評価——とりわけ小林多喜二の「党生活者」の評価など——をめぐって、第一次のいわゆる「政治と文学」論争が『近代文学』派の荒正人、平野謙らと旧ナップ系で新日本文学会の中軸となった中野重治・蔵原惟人らとの間でくりひろげられた(この論争は別名「主体性」論争ともよばれ、ジャンルを超えて哲学や政治・経済学の分野の人々の間にも広がっていった)。

 論争の間、花田さんは直接にこれに触れた発言はしていないように、わたしは思います。ただし、後に花田さんが『近代文学』派の山室静や荒、平野、それに埴谷雄高らとくりかえした第二次「政治と文学」論争などからみて『近代文学』派に批判的だったろうと想定されます。しかし、問題の見方は旧ナップ系の人々とは異なり、かれらへの批判も含むものだったと思われます。一口で言って、花田さんはインターナショナルな世界文学の観点から問題をみていたわけです。

 花田さんが日本共産党に入党するのは一九四九年で、入党推薦者が当時の党本部文化部の青山敏夫という人です。新日本文学会の主流となったのが旧ナップ系の文学者で政治的には宮本顕治に親しい人々ですが、この青山敏夫氏は牧頼恒二、増山太助といった人たちとともに徳田球一を家長とする主流派閥の文化オルグ・グループを形成していました。日本文化人達盟の機関紙『文化タイムス』などを中心に活動が行なわれていたようで、旧ナップ系に比して一世代若い人々が担っていました。

 のちの日本共産党「五〇年分裂」にいたる要因の文化運動面におけるあらわれは、早いものではもう四七年くらいから出てきていた。逆にいえば、共産党内部の路線上の対立が文化運動の世界に反映してきたとも言えます。それがまた文学運動に持ち込まれたのが『新日本文学』に対抗する『人民文学』の発行です。こうした形で四九年にははっきり分裂状態として現われてくる。党の分裂は五〇年春からですが、文化運動の中にはすでにいろんな軋みが出ていた。そういうものはこの年表には出てきません。ここでのちのわたしと針生一郎さんとの論争の中で問題になる「政治のアヴァンギャルドと芸術のアヴァンギャルド」の関係をどう見るかという問題につながっていくのですが、ここでは時間がありませんので、別の機会にゆずり、論争の中身は省略します。

 花田さんと青山氏の関係についてわたしは詳しくは知りませんが、花田さんの影響かどうか、「夜の会」その他で勉強していた安部公房さんらに代表される若手のアヴァンギャルド芸術派はこの線で共産党と結びつき入党する。そして、この人たちがのちの『人民文学』に組織化され、政治的にはいわゆる極左冒険主義の方向へ進みます。朝鮮戦争前夜、反動化が進む中で気分的に急進化していくわけです。京浜工業地帯の労働者党員たちと交流して観念的に昂揚し、やがて火炎瓶闘争などを讃美するルポや詩を書くようになる。芸術のアヴァンギャルドという、内部世界の前衛的な探究者が、外部世界へ対応するときは、政治と芸術との違いをあくまでも科学的に測定してその法則性をつかみながらやらなければならない。芸術のアヴァンギャルドが政治のアヴァンギャルドになるといっても、芸術には芸術の論理があるように政治には政治の論理があるわけで、政治と芸術を同一視してしまって、政治の論理だけで芸術を見ようとするのも間違いで、同様に芸術を作っているものの論理と方法論をそのまま政治にもっていくのも間違いです。政治と芸術には対応関係はあるけれども、組織一つとっても、運動論を考えても、違いがあり、それをきちんととらえて対応していかなければならない、という問題が十分に理解されていなかった。その結果、共産党内の対立が、主として徳田派閥によって文学運動に持ち込まれて、分裂を含む対立・抗争がおこり、大きな混乱がおこって、それが数年続いた。

 一九五二年、花田さんは新日本文学会第六回大会のあと編集長に選任される。新日本文学会は前述の対立抗争で力を消耗します。それを克服していく方向を、中野さんを中心にいろいろに考え、花田編集長の登場となったわけです。

 これはのちに実際経験してわかった面もありますが、このときの会の改善は、歓迎すべきもので、新しい編集委員会も作って、運動自体を全体として再編成する。会議の構成からやりかたまで再編成した。そういう新しい流れがやっと出てきた。これを推進したのが、リーダーとしては中野さんであり、それによって中心に押し出されてきたのが花田さんです。ここから花田編集長時代がはじまるのです。

 わたしの幸運——大西・花田両氏との出会い

 たまたまですけれども福岡で仕事をしていて、『近代文学』同人でもあった大西巨人さんが新日本文学会の第六回大会後に上京されて、九月に同会の中央常任委員会の常任書記となって組織部を担当された。一と月後に、当時浪人していたわたしがたまたま花田さんに誘われ、大西さんにもすすめられて編集部に入りました。

 脇道にそれるかも知れませんが、わたしが花田さんのもとで仕事をすることになるいきさつを話します。花田さんを語ることになると思うからです。わたしは新日本文学会の会員になったのは早く、一九四七年でしたが、文学などやっている暇もなく学生運動と政治運動に明け暮れていたのですが、五二年春には国際派がつぶれ全学連も徳田派にのっとられて、やることがなくなった。高校時代、平田次三郎さんに頼まれて『思潮』という雑誌の編集部にいて九州在の大西さんに原稿依頼していたりしたので、上京して神田に住んだ大西さんを訪ねていろいろ話をうかがったりしていた。たまたまわたしの友人の『新日本文学』編集部員が大西さんに執筆を頼もうとしたら、編集長の花田さんが納得できない理由でダメだと言ったというのを聞いて、一定の仕事をしてきている会員に理由もなしに書かせないというのは何事かと、文句を言いに書記長の中野さんのところに行ったら、ここは新日本文学会のいいところで「よし、意見があるなら言いなさい」と言われて、指定された日に出掛けていった。常任中央委員がずらりと並んで待っていた。あのころはわたしは花田弁証法などまるっきりわかっていなかった——いまでもたぶんにそうですが——当時の文学ニュースの中にチェコスロバキアで『シラノ・ド・ベルジュラック』が上演か出版かを禁止されたという記事があって、花田さんはある雑誌であの闊達な詩人の芝居が発禁になったことは悲しいことだと書き、ある雑誌では、ああいう頑固なナショナリスト、ファシストまがいのやつは弾圧したほうがいい、というようなことを書いていた。単細胞のわたしは、たまたま両方読んでいて、あっちでは弾圧されて悲しいと書き、こっちでは弾圧してしまえとはいったい何だ、と単純に腹をたてていた。つまり花田さんの弁証法の論理——楕円の思想などまったくわかっていなかった。ことを両側面から見て全体を捉える、そしてそれぞれの側面をときには強調して相手の意見(ここでは読者の反応)を触発する、というのをわかっていないし、花田氏なにするものぞと意気込んで出かけたけれども、ことはあっけなく解決した。つまり、わたしたちの一般的主張は認められ、具体的な件はわれわれの情報収集が不十分で、花田さんの実際やろうとしていたこととわたしたちの理解とは違っていたことを認めざるをえなかった。それでわたしは帰りぎわに花田さんに、間違った情報、不十分な理解で抗議をした面があったことをあやまりました。しばらくしたらきみ編集部にこないか、と花田さんに誘われたわけです。そういうところが花田さんにはあるんです。そういうとおかしいかもしれませんが、花田さんは対立者を同志として協力しながら変えていく——そういうことをやった。以後、わたしは花田さんの運動の参加者として——ときに不実、反発もしましたが——こんにちにいたっているわけです。

 花田編集長時代の『新日本文学』

 わたしがはじめて花田さんの話を聞いたのは新日本文学会の大会で外国文学委員会の報告をされたときでした。中村光夫と広津和郎の『異邦人』論争がありまして、それをめぐっていろいろその場でも論議がでたとき、花田さんが射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ、その立場から論じた人が一人でもあるか、と言うと、一瞬、会場がシーンとなった。そういうようなかたちで花田さんは新日本文学会に登場してきました。いい気になっている者には、強い意見をぴしっと言う、同時に、間違っても、それを認めるやつは仲間に入れてやっていこうという、若い者には親切——これも花田さんのひとつの運動論の実践だと言えます。むろん、実践的には、そういうものが裏目にでることもあれば、うまくいくこともある。それは方法論そのものが悪いのではなくて、方法論と状況との関係での測定の多少の誤りであって、状況の悪さのほうに主として問題があったように、わたしは思います。

 花田編集長時代は一九五二年七月号より五四年九月号まででわずか二年間です。しかし、表紙をはじめずいぶん変わりました。作家では大西巨人さんの登場。島尾敏雄、竹田敏行、富士正晴、まだ学生だった小沢信夫、それにたくさんの労働者の作家が書いています。一番目立つのが若手の文学者たちの執筆です。目次の一覧を見てもらうとわかるように、毎号のように徐々に新しい人が入っているわけです。当時の若手の批評家が網羅されているおもむきがあります。今ではみんな「大家」になってしまっていますが。浜田新一はいまは日高晋という本名で宇野経済学の学者になってしまいましたが、あのころは文芸評論をやっていました。大野正男もいまは最高裁判事ですがこのころは文芸評論家です。清岡卓行さんは詩人にして映画評論家、いまは小説を書いています。村松剛はこの頃『世代』の最左翼といわれたが、その後右翼になって死んでしまった。奥野健男はいまも文芸評論家です。ほかに吉本隆明、日野啓三、さらに江藤淳まで書いています。当時、二〇代後半から三〇になるかならないかくらいで、みな新進の文学者たちでした。それだけではなくて、さっき言いましたような大井広介や梅崎春生や大岡昇平らたくさんの人たちが座談会などに出席してくるようになってきた。そういうかたちで広がってさた。

 総目次をあらためてながめると、たとえば「療養者と文学」という特集もあります。まだあのころは結核も多くてたいへんだったんですが、療養者が短歌・俳句の人口の主流を占めていた。そういう人たちを対象にして、少しでも読者を広げていこうとした特集です。おもしろいのは文学者が政治を論ずるのではなく、共産党と社会党と労農党の政治家たちにきてもらって文学の話をする。花田さんが司会している。いろんなテーマを考えてゲストをよんで自分が司会をやって、その人たちからおもしろい問題を引き出していく、というような編集プランもありました。部数は、花田さんの前までは三〇〇〇部刷って一〇〇〇部売れるかどうかいう状態になっていましたが、拡大のための増ページ、増部数といって、一万部刷ったのです。ページ数も倍ぐらいに増ページをし、広告も出して宣伝もした。金もかかった。それをやっても、そうは売れませんでしたけれども、それでも部数は三倍、つまり三〇〇〇部くらいになりました。中野書記長、花田編集長、大西常任書記、秋山清財政部長以下、事務局のメンバーなど中心の人たちはみな頑張ってよくやった。活気は出たが、非常な赤字が出ました。どうしたかというと、基金組合というのを会員で作って金を集めて赤字を埋めたりしました。中野さんはその資金づくりや赤字処理のときに二〇〇万円を出しました。当時の二〇〇万円ですから大変です。そんなお金があったわけではないから、中野さんの将来の原稿料を担保ということで筑摩書房から借りた。ですから、その後どのくらいか中野さんは原稿料や印税なしで『展望』に書き、筑摩書房から本を出していた。そうやってお金を出す人がいて、そうやってお金をどんどん使う人がいて、その相互信頼の上に運動というのは成り立ってきたのです。わたしは金を出した中野さん、金食い虫みたいな花田さん、財政部、事業部を担当した大西さん、秋山さんの奮闘を忘れることはできません。何の苦労もなくのほほんと運動なんかはできない。

 そういう悪戦苦闘しているときに、宮本顕治が——会員ではあっても何もしない、ビタ一文カンパしたこともない会員が——文学会の運動や活動に口出しをしてきた。六全協の直前で分裂していた共産党の指導部間で統一が決まりかけていて、共産党主流の徳田派の極左冒険主義が行詰まってきて、国際派の宮本氏が力を獲得してきていた。そして文学運動上は何の解決もついていないのに、『人民文学』の人たちを新日本文学会にそのままもどせ、そのためにいままで頑張ってきたうるさい連中は邪魔だ、ぐずぐず言ったら、追い出そうというわけです。それでまず、大西さんの批評活動にたいして、セクト主義だといって、攻撃してきた。大西さんの野間宏『真空地帯』への批判などがそれだというわけです。中野——窪川(鶴次郎)はこれに屈したが、他の人々は屈しなかった。そこで宮本が直接乗り出してきてこんどは会運営について、実状無視のムチヤクチヤな文句をつけた論文を書いてきてきた。その論争が組織部責任者の大西さんと宮本顕治との間で行なわれた。宮本の反論はどんどん長くなってくる。それを長すぎるから少し短くしろと編集部が言ってもきかない。それを載せるか載せないか採決しろということで結局常任委員会で——だったとわたしは思いますが——採決して、一口で言えば共産党員が載せる、共産党にもどっていない共産主義者とリベラリストの委員が載せないという意見で五対五になった。そのとき議長役をしていた書記長の中野さんが載せることにし、同時に花田さんを編集長から罷免することも決定した。花田さんはそのときにはそのことが議題になることは知っていて出席しなかった。もし花田さんが出席していれば決定はかわったでしょう。しかし、こんな事態を出来させる状況はなくなるわけではない、たぶんそういう考えて花田さんは出なかったのです。

 花田編集長を罷免したあと、中野さんが編集長をかって出たのですが、花田さんに「文芸時評」を依頼し、花田さんは引き受けて罷免された翌月から文芸時評を三回書きました。最初の題が「シラミつぶし」でした。終回の十二月号の題が「別れの曲」です。

 これも知られた話ですが、花田さんは編集長時代文芸時評をやらなかった。主として映画・美術・演劇などのジャンルの批評をやっていた。というのは、自分の厳しい批評が、『新日本文学』の筆者を狭めたりしてはいけないということで、『新日本文学』だけでなく、他の、『群像』などにも時評風の文学評論は書かなかった。そういうふうに禁欲的に、集中してやっていた。「シラミつぶし」は戯文調だが内容は非常に厳しく、文壇文学の作品をかたっぱしからやっつけた。あまりそれがすごかったので、高見順が「作家がいっしょうけんめい書いた小説を、シラミとはなんだ、けしからん。花田はゴロツキだ」とやった。それで有名な「ゴロツキ」論争になった。その中身と経緯は、お配りしたわたしの文章〔「社会評論」一九七六年一月号のコピー〕に書かれています。

 花田氏の論争を貫く「モラリスト批判」の意味

 高見順も戦前の運動の参加者で、戦前に転向をし、戦後は文壇の中心にあって「最後の文士」をきどっていた。そういう人の文学観・文学運動観と、花田さんの文学観・文学運動観との正面からの激突であって、それは結局、日本文壇文学の価値判断と、新しい価値判断を打ち立てようという花田さんとの対立でした。それは芸術論をめぐる論争となって行きました。二〇世紀的アヴァンギャルド芸術の方法をどうみるか、です。花田さんは日本のプロレタリア文学に欠けている

ものとして、インターナショナルな、世界文学のレベルとの比較における視野狭窄を変革したいと考えていた。とくにアヴァンギャルド芸術が切り拓いたものをどう摂取して社会主義的なリアリズムを新しいものにしていくかを追求した。それは革命ロシアの文学でも充分ではなく、これを本当に起こしていくにはどうすればよいかを問い、それによって戦前のプロレタリア文学を新しく現代的なものとして生き返らせていきたいと、考えていた。花田さんの考えを充分ではないにしてもある程度わかってその意図の実行を新日本文学の創造運動に取り入れようとしてきたのは、旧作家同盟の中では中野さんだったようにわたしは思います。しかし、その中野さんが自分の考えを厳しく貫けなかった——宮本におさえられたのだ、とわたしは思います。

 この「モラリスト」論争は、先行する『近代文学』の主体性理論に基礎をおくモラリズムと、文壇文学の中にあるモラリズムの考え方とが、同根であることを明らかにしました。花田さんはこれこそ、日本文学が克服していかなければならないものとして、『近代文学』派と文壇の代表としての高見順らとの両者を論敵としての数年にわたって断続しつつ論争を展開していさます。

 この間にわたしは吉本さんと仕事をしていく——すなわち「文学者の戦争責任」の問題の追求がそれで、二人の協働作業がなされるのですが、やがて問題のとらえ方が、わたしと吉本さんとには相当の違いがあることが相互にわかってきます。それがのちにわたしと吉本さんとの論争につながっていくわけです。しかし、その前に、吉本・花田論争がくりひろげられることになります。

 このときの花田さんの論もすでに「モラリスト批判」の中で展開されてきていたものです。花田さんの問題提起は、日本近代文学に根幹からの変革を突きつけるものとして、少なくとも「芸術の革命」をめざす者は受け止めるべきだったのです。

 花田吉本論争を想うと、このときの『近代文学』派、とりわけ埴谷さんの誤りが大きかった、とわたしは思います。花田さんとの論争では『近代文学』派の人たちは、つまりは山室静流の反共主義にゆきつくほかはなく、そうなりたくなければくぐもらざるをえない——本来なら、『近代文学』同人は花田さんの問題提起を正しく受け止めて、文壇文学的伝統との対決に進むべきだったのに、そうした最後のチャンスを見送ったばかりか、やがて始まる吉本さんの暴力的な攻撃に代弁者を見出したように喜び、これに追随し、これを称揚するというようなことをやった。埴谷さんは、のちの吉本さんとの論争でいくらか自分の誤りに気づいたのではないかとも思われますが、もう遅かったでしょう。——結局その結果、あの人たちがやろうとしたことは宙に浮いたままの状況を生み出して、かれらの仕事はいますべて終わろうとしています。

 思い返してみますと、戦争中、花田さんが「文化再出発の会」をつくって『復興期の精神』を書きはじめたとき、コミュミズムの立場からもう一度抵抗を組織しようとしたのでした。一方、そのとき埴谷さんは、『構想』という同人誌をつくってそこで『不合理ゆえにわれ信ず』を発表していった。超個人主義、非合理主義の追求です。対照的な二つの道の岐れめは、すでに戦争中に根ざしていた。一九三九年に二つの道が同時に出発していくわけです。戦後、両方ともその方向を一貫して、死ぬまで歩みつつ、闘っていたわけです。花田−埴谷の対立は表面、花田吉本論争のようにはならなかったけれど、にもかかわらず、埴谷さんは吉本さんに自分の代弁者、後援者、後盾をみていた。その誤りからどんな教訓を引き出すか——それは今後のわたしたちに遺された課題でしょう。

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